2016年4月5日


 ヒトが群れをつくる動物であることゆえのヒト特有の欲望として自分の存在を認知してほしいという欲望があります。

 その欲望の具体的な現われが、「自己表現」というものです。

 「自己表現」ができて他者に自分の存在を認知してもらえるということにヒトは大きな喜びを感じ、幸せを得ることができます。ヒトのヒトたるゆえの最も基本的な欲望が充たされるからです。

 この基本的欲望を充たすために、ヒトはオトナになってからも、いやむしろオトナになってからはより強烈に、このために苦闘します。

 子育ての目的は、自分のこどもが自己表現ができるようになり、他者に存在を認知してもらえるようになることである、と言ってもいいでしょう。




 この場合、こどもにさずけるべきことは大きく3つに分けられます。

 1つは、自己表現の能力です。動作、言葉が最も基本的なもので、レベルが上がれば芸術的表現能力といったところまでに到達します。

 もう1つは、認知してもらう相手である他者を知ることです。相手を知らなければ表現の発信もできません。それはヒトを知ることから社会を知ることまで広がります。

 この2つは必要なこととして一般に認識されており、教育の場でも提供されています。しかし、最後の1つは忘れられがちです。

 その最後の1つは、表現すべき自分の存在を自ら感じとること(自覚)ができるようにするということです。




 残念ながら、この最後の1つが忘れられているため、表現すべき自分として生物的な第1次欲求しか自覚できず、オトナになっても生物的な第1次欲求しか表現できない人たち、すなわちオトナになっても赤ちゃんのまま(性欲は強まっている)の人たちが増えています。ヒトとしての大いなる欠損が生じている状態というほかはありません。




 何故そんなことになるのか?

 結論的に言えば、それは「過保護」の結果です。

 「過保護」とは、こどもをあらかじめ欲求満足の状態に追い込むことによって、こどもを支配下に置き、こどもに選択させない、判断させないということです。

 選択、判断をしなければ、選択、判断の主体としての自分の存在を自覚することができません。それが継続反復し、こどもの精神のすべてをおおうようになれば、自覚できるのは生物的な第1次欲求だけということになります。こどもの精神的成長を妨げるものともいえますし、こどもを動物化するものともいえるでしょう。

 また、選択、判断によって生じる他者との食い違い、摩擦、離反、和解等々を経験することができないため、他者を知るという2つ目のことも不十分になります。




 「過保護」は基本的人権たる自由を行使する能力を、精神的成長を妨げることによってこどもから奪う行為です。

 「自己表現」「存在認知」を可能とするためにこどもに対してかたむけられる1つ目と2つ目の教育努力を無に帰してしまう効果をもたらせます。

 他者の認知を受けるその前に、自分が自分を認知できていること、認知するに足る自分がこどもの中で育っていること、そのことをこどもに確保することが何より大切です。