2016年3月12日


 ちょっと胸がすっとする女性の啖呵(たんか)を紹介する。胸をすっとさせるためにはその啖呵が吐かれる背景の説明を必要とする。


 1913年(大正2年)10月10日、その年の初めまで総理大臣を務めていた長州閥の陸軍大将桂太郎逝去。桂太郎は、総理大臣就任中、日露戦争、韓国併合、社会主義運動弾圧等々歴史上の大事件にかかわった明治の大物政治家である。

 その桂にはお鯉さんという新橋芸妓上りの愛妾があった。桂の逝去により、そのお鯉さんへの遺産分与で話がもめた。お鯉さんの主張は7万円(現在価値で約2億円)、桂から生前にすでに贈与を受けていたというものであった。一方桂家側の主張は、その利息を毎月支払うから毎月取りに来い、ただし次の3条件、すなわち①貞操を守ること、②子供の教育を自儘(じまま)になさざること、③犯(みだ)りに外出いたすまじきこと、を遵守せよというものであった。この子供とはお鯉さんの実子ではなく、桂が外で生ませたたくさんの子供のうち3人をお鯉さんがあずかって育てていた子供のことである。

 この争いに桂の義父にあたる明治の元勲、侯爵井上馨(桂の本妻は井上の養女)が介入し、これに対しお鯉さんは激怒して井上が7万円全部持っていけと居直るのである。この争いには、井上のみならず、桂家側に立つ多くの代理人が登場する。その中に当時の有名人で実力者・料亭「喜楽」の女将がいた。その女将が袈裟をかけて数珠をもつという演出でお鯉さんの説得にやって来る。紹介する啖呵はそのときになされたものである。お鯉さん、そのとき33歳、愛妾期間は約10年に及んでいた。


「そりゃあいけないわ女将さん。ふだんの姿(なり)だとあたしにも義理があるけれど、袈裟をかけていて下さるとほんとに話好い(注・話をしやすい)のだから。第一あなたも苦労人じゃないか、先方のいうことばかりを聞いて、こっちになって考えてくれないからですよ。よく思って見て(注・考えてみて)おくんなさい。誰が一番可哀そうなの。旦那には離れるし、これからさきどうしてゆこうと苦労しているものの身になって考えて御覧なさい。貞操を守れったって、はい守りましょうといって守れなかったらどうするの、かえって恥じゃありませんか。そんなことは約束するものじゃありますまい。それから子供のことだって、12人もある子供で、腹違いが多いから、お前の子として育ってきたものを、また他の者の手へ渡しては子供が可哀そうだからと、すっかりあたしの子に(注・桂が)なさったのを、誰に教育をたのもうというのでしょう。犯(みだ)りに外出をいたさぬ事というのも、あんまり人を人間でないように思っているじゃありませんか。旦那の在世のうちだって、一々本邸へ電話をかけて、許しを受けなければ一足も外へ踏み出せなかったので、つい面倒くさいから芝居ひとつ見ないようになってたじゃありませんか。これからこそ、気楽にして暮らしたいと思うのに、なんだかんだと煩(うる)さい事を聞くのも、それもお金があるからだと、つくづくほしくなくなっちゃったんです。もともとあたしのものなのだから井上の御前にあげましょうって言うだけなのですわ」


 以上は長谷川時雨著「近代美人伝(上)」(岩波文庫)のうち「一世お鯉」から採ったものである。長谷川時雨、この人も美人伝に載ってもいい美人であり、戦前に女性の立場に立った華やかな活動をした人物である。彼女はお鯉さんと面談してこの啖呵を聴き取ったのだが、この言いっぷりは多分にお鯉さんに同情した長谷川時雨本人の言いっぷりでもあると筆者は考えている。

 なお、遺産分与は5万円で決着したようであり、3人の子供をお鯉さんが手放すに当たり1万2千円ずつ渡したとされている。