2016年2月24日


 自分が正当/不正当と思ってきたこと、自分が何か判断をするに際して参照している基準(意識しているものもあれば無意識のものもある)、それらの根拠と思ってきた自然、人間、社会の「事実」、それらはある時代の特定の文化が作り上げてきたフィクションであり、それを受け止める立場からすれば幻想でしかない。我々は「幻想の王国」の臣民なのである。そのことを、筆者は長い期間をかけて徐々に学んできた。

 その結果として得られたものは「自由」である。「幻想の王国」の臣民であるとの自覚によって、社会を、また自分を、客観的に見ることができるようになった。

 学びが不十分でしかないために、臣民という隷属の立場から解放されるには至らず、得られた「自由」は極めて限定的なものにすぎない。しかし、多くの「違反」、「逸脱」、「不達成」に拘泥するのを免れることができるようになった。

 王国のルールによって多くの人々が犠牲になっている。その犠牲は自己否定、アイデンティティの喪失という悲劇的かたちをとる。筆者はそれを知ることによって、王国のルールに従えない人々への寛容、共感に近づくこともできたと思う。

 そしてこれまでのことは、これからさらに「幻想の王国」から少しでも解放されるによって、多くの「自由」を得ることができるであろうという期待につながっている。


 フィクションであることの暴露、幻想の告発に成果を上げてきたのは、人文科学、社会科学といわれる分野である。

 (人文科学、社会科学は「幻想の王国」のためのフィクションの捏造、幻想の拡大の役割を果たしてきたのであり、それゆえに王国に存在することが許容され、奨励されてきた。総合すれば否定的側面のほうが圧倒的に大きいというのが事実である。また、「空」「無」をその思想の中核とする東洋思想が「幻想の王国」の暴露・告発に大いなる貢献をしてきたことを忘れることはできない。)

 そして「幻想の王国」への人文科学、社会科学の攻撃の最前線は、筆者の予想を大きく超える地点にまで達していた!


 我々を極めて大きく支配している、あまりにも当然で、否定しがたい、自然科学の立場からも支持されている、人類史にきらめく多くの賢人たちもそれから逃れられなかった思想、「幻想の王国」の難攻不落の城、そこに今、最前線部隊が突入を開始している。その城とは、「男女二分の考え方」である。この世は男と女からできていて、男と女によって次世代の再生産がうまくなされていくように世の中は方向づけられているというのが「男女二分の考え方」である。

 「男女二分の考え方」は、フィクションである、幻想である、「幻想の王国」の本丸である。攻撃部隊隊長・竹村和子はこういう旗を掲げて戦っている(残念ながら御本人は2011年57才の若さで亡くなった)。筆者はその著「愛について」(岩波書店)によって遅ればせながらその最前線を垣間見ることができた。その著書の充実ぶりから見て、後続部隊に懸念はないと確信している。


 この戦いの最終的帰趨は明らかだと思うが、男女二分にこだわる保守勢力は必死の抵抗をみせるだろうから、時間がどれだけかかるかは見通しがたい。

 しかし、戦いが終わったあとの世の中は、どんなに涼しくて風通しの良い、さわやかな、すっきりした世界となるだろうか、想像するだけでも気持ちが良くなる。