2016年2月7日
電力をどこから買うかが自由になるという。それはけっこうなことだ。競争が促進され、料金低下、サービス向上が期待できるであろう。
だが、それに伴う電力供給各社の販売戦略ははなはだけしからんと怒りを覚える。
また、その販売戦略に翻弄される消費者の姿は、笑止千万、馬鹿馬鹿しくて哀れにさえ思えてくる。
電力供給各社の販売戦略は、結局のところ、その差別化戦略の複雑さによって、どの会社が一番安いのかという消費者の判断を極めて困難にしている。その判断のための情報を売る専門の会社があるという事実がその何よりの証拠である。
消費者が簡単に判断できるように業界に公正競争規約を作らせ、比較しやすいように電力料金体系にルールを設け、その表示方法もルール化すべきである。
気の毒なのは消費者だ。複雑な販売戦略のもとでどこが一番安いのか見極めようと一生懸命勉強する。そういう消費者を見てマスコミがそれに対応する報道をするため、まじめな消費者はさらに一層勉強に追い込まれる。その結果得られる電力料金の節約額は、報道によれば、一般家庭では年間数千円、多くても1万円がやっとだろう。
勉強して判断に至るのに8時間、会社との契約手続きなどにかかる時間を4時間、計12時間と仮定すれば、時給千円として、電力会社の選択にかかった費用は1万2千円だ。他人との判断の違いがあったりして、その確認に手間をかければ費用はさらに増す。
この費用が料金節約分で補われるのか?旧料金だったらいくらだったのかなどと計算してもいられない、電力消費の内容も変化するので比較はかなり困難だ。実態はほぼ闇の中に隠れてしまうことになる。
自家労賃というものは往々にして行動選択において計算に入れられず、そのコストが現金で支払われることもないので、こんな社会的ムダが意識もされずに広範に発生してしまうわけだ。
ムダなことに時間をかけず、いい音楽を聴いたり、いい本を読んだり、楽しい会話をするほうが、よほど合理的だと思うのだが、払わないで済むものを払うのは悔しくてたまらなくて、そのための自己労働を考えていられないという変な合理主義の病に罹ってしまっている現代人は、目の前にぶる下げられたバナナから、どれを選ぶのかはむずかしいのだが、目をそらすことができなくなってしまっている。
かく言う筆者も合理主義の立場から「合理主義」を笑っているわけで、同じ穴のムジナであって威張ってもいられない。