2016年1月27日
我々がそのただ中にいる資本主義社会、その成立の前提となる人々のパーソナリティ、資本主義がその存続のために再生産する人々のパーソナリティ、そのパーソナリティを備えるに至った人々を「近代人」と呼ぶ。この近代人のパーソナリティの本質は何処にあるかといえば、それは「合理主義」である。合理主義とは、合理的に思考し、合理的に行動しようとする志向のことである。(注・結果が合理的であるとは限らない(笑)。)近代人となっている我々にとっては合理主義は当たり前のことと考えられるが、「前近代」を考えてみれば決して当たり前ではない。
合理主義の近代以降になっても人の死に方は伝統、慣習によって永く規定されてきた。そのため、近代人といえども、永い間、合理的な死に方というものは考慮、検討の対象ではなく、伝統、慣習にゆだねてきたのであって、それを追求する必要はなかった。しかし、現代資本主義はついに、死に方の伝統、慣習を支えてきた共同体、とりわけその中核の家族共同体を解体するに至り、死に方についての伝統、慣習の明快性、当然性は失われることになった。その結果、近代人は、合理的に生きようとするのみならず、合理的に死のうともするようになったのである。
その結果、現代人に合理的な死に方についてのノウハウの需要が生まれる。資本主義社会では需要が生じれば市場において供給が登場する。その供給の1つが上野千鶴子「おひとりさまの最期」である。しかし、合理的な死に方のノウハウとして「おひとりさまの最期」を読むことができるか?単に需要に応じたものと言えるか?それが問題だ。
上野氏は「在宅ひとり死」という語を造語する。非婚、非再婚によりたくさんの高齢女性(=「おひとりさま」の典型)が存在するのみならず、一般化する子どもとの非同居高齢夫婦は片方の死によって必ず「おひとりさま」化する。そのおひとりさまの死に方が惨めなものとならないように、「在宅ひとり死」の迎え方について、上野氏は様々なノウハウを提供してくれる。需要に対する供給の役割を「おひとりさまの最期」は十分に果たしてくれる。ノウハウ本として読む価値がたっぷりある本である。
しかし、読み進めていくと、「おひとりさまの最期」がノウハウには決してとどまっていないことを強く感じさせられる。「おひとりさまの最期」での最も重要なメッセージは、ノウハウの提供とは関係ない次のフレーズに象徴されていると筆者は考えるのである。
すなわち、「健康なときの日付けのある意思など信じるな(P253、うしろから3行目)」である。
このフレーズは上野氏が日本尊厳死協会の講演会で話したこととして出てくるのであり、直接的には「胃ろう」「経管栄養」「呼吸器」といった尊厳死の立場からは否定的に扱われる延命措置が問題とされているのではある。しかし、このフレーズの意味するところは、「健康なときの日付けのある意思」は「健康なとき」において合理的と考えられているだけであって、健康を損なったとき、特に認知症その他の高齢に伴って生じる精神の病となったときには、人はある意味では別の人格になっているのであり、その人格が行う判断を「健康なとき」に行うことはできるものではなく、「健康なとき」の判断を合理的といえる保証はまったくない、というものであると考えられる。合理主義に限界あり、というメッセージである。
すなわち、人格の変化をはらむ「死」という問題は、近代人の合理性の手が届く範囲には属さない、ということであり、「死」という問題から入っていって、資本主義の基礎をなす近代人の合理性は「死」以外の分野においても限定的なものでしかないということが示唆されている。そして、この考え方の射程は人間社会の在り方のひとつとしての資本主義社会そのものの限界性にまで及ぶのである。
「健康」というのは人の在り方として理想的ではあるが、言うまでもなく、人の在り方として決して普遍的なものではない。合理性を担っている大脳は人体の中の最高権力器官ではあるが、決してそれだけで全人格が支配されているものではない。社会は「健康」「合理性」の周辺に存在する極めて複雑、多様な要素から構成されているのであって、社会は「健康」と「大脳」だけで割り切ってしまえるほど簡単なものではない。
社会は、トータルに、すなわち複雑、多様な要素すべてを含めて、面倒を見るように進んでいくことが望ましい。その方向性を欠いた社会は、いずれかの時点で、捨て去り、排除してきた要素から報復を受け、ほころびが生じて、衰退に至ることになる。
「おひとりさまの最期」は、思考がそこまで広く、深く及んでいることを感じさせてくれるのである。
上野氏は本書の最後で謙虚に次のように語っている。
「 多くの人々の死に方を学んできて思うのは、どんな死に方もあり、という感慨です。終末期についての研究からわたし自身が得た最も大きな成果は、これでした。
生まれることと死ぬことは、自分の意思を超えています。それをもコントロールしたいと思うのは、神をも怖れぬ不遜。ですが、生きているあいだのことは、努力すれば変えられる。与えられた生の最後まで生きぬくこと、そしてわたしだけでなく、家族のある人もない人も含めて、多くの人たちにとって、安心して過ごせる社会をつくること。
宗教家ではなく社会学者であるわたしのなかにあるのは、この世のことはこの世で解決したい、というあくまで実践的な意思なのです。(P270)」
【PS.】
人類を歴史的に眺めたとき、近代人は特殊歴史的存在、非普遍的存在である、ということが発見され、その精神の地層の発掘は現在でも継続されている。その発見の基礎に、資本主義社会の歴史的特殊性を明らかにしたマルクスがいる。社会科学に真剣に携わる者であったなら、このマルクスの意義、貢献を認めない者はいないはずだ。(上野千鶴子もまたその一人であろう。)しかしながら、一般の人々、また一部の非知性派の学者は、共産主義革命思想という政治思想によってのみマルクスを考え、マルクスを全面否定してしまう。誠に残念な事態と言わざるを得ない。マルクスによって開かれた社会科学、その本質は歴史的特殊性の自覚にあると考えられるが、その延長上で、マルクスは克服され、さらに発展されなければならない。そのためにも決してマルクスはないがしろにされるべきではない。