2016年1月2日
岩井克人東大名誉教授は資本主義経済で利潤が発生するのはなぜかという根本的問題に関するマルクスの解答を継承、発展させている経済学者であり、マルクス経済学の流れに位置づけられる経済学者である、と筆者は考えている。
この岩井先生によるマルクスの解答の継承、発展の意味には2つの考え方があり得る。1つは、マルクスの利潤の源泉に関する考え方(労働の生産物の価値と投入された労働の商品としての価値の差異に利潤の源泉があるという考え方)が産業資本主義という特殊歴史的時代にのみあてはまる限定的なものであることを岩井先生が克服して、より一般的に、すなわち商業資本主義、産業資本主義、ポスト産業資本主義のいずれの段階にもあてはまる利潤の源泉(それはイノベーションによって創り出される差異一般である)を見出したという意味でマルクスを継承し、発展させているという考え方である。もう1つは、マルクスが長期的には利潤率は限りなく低下し、ついには資本主義は終焉を迎えると予測していたのに対し、マルクスの利潤の源泉に関する考え方の枠内において利潤発生の拡大延長、すなわち利潤率の長期的低下を否定し、利潤発生の永続を説明することに岩井先生が成功し、マルクスの誤りを乗り越えているという意味でマルクスを継承し、発展させているという考え方である。
岩井先生自らは、しかしながら、まずそもそもマルクスはそこから解放されるべき経済学者であると捉えているようであり、自分をマルクス経済学の流れに位置づけられる経済学者とはまったく考えていない。また利潤の発生に関しては、2つの評価のうち、前者、すなわち産業資本主義に限定されるマルクスの考え方を克服、凌駕する一般的な原理を自分は見出したと評価しているようである。
それに対し筆者は、2つの考え方はいずれもあり得るのだが、現在の資本主義が直面する問題を明らかにし、それへの対応を模索するうえでは、後者、すなわちマルクスの利潤の源泉に関する考え方の枠内において現在の資本主義に利潤率の上昇、利潤発生の永続の可能性はあるとし、しかし日本を含む先進国の経済が停滞的であるのはなぜかというふうに問題を設定したほうが有益であり、岩井先生の考え方ではイノベーションが大事というだけにとどまり、構造的な真の問題が見えてこなくなるおそれがあると考えている。
ところで問題にしたいのは別のところにある。岩井先生が著書の中でマルクスは「破綻」したという厳しい言葉を使っているのだが、マルクスがポスト産業資本主義を見通せず、資本主義の崩壊、社会主義の成立を予測してしまったことをもって「破綻」としているのではなく、「価値形態論」という純粋に理論的な場面で「破綻」したと言っているのである。
「価値形態論」というのはマルクスの利潤の源泉の考え方を導き出す基礎となるものだが、岩井先生はその基礎において誤っていると主張しているのであり、後述するようにその主張には疑問がある。また、岩井先生はその誤っているという基礎から導かれた利潤の源泉について、産業資本主義に限定すればマルクスは正しいと言っており、そこのところも不可解と言わざるを得ない。
岩井先生の言うマルクスの『価値形態論』の「破綻」とは、商品たる貨幣(金、銀)については労働価値説が成立しないという主張のことであり、岩井先生は、貨幣への労働価値説の適用は「通常の経済学の用語を使えば、ストックの価値をフローの生産費で説明しようとする初歩的な誤り」「(貨幣として流通している金の量・太古から今までのすべての金の生産量)の価値を、日々の金生産のために投入される労働量で説明しようとしている」(いずれもP241)(ページは「経済学の宇宙」における掲載ページ、以下同じ)と口を極めてマルクスの「労働価値説」を批判している。しかし、岩井先生の主張は短期的な(というのは再生産については考慮しない)需給均衡価格論を中長期的な(すなわち再生産を考慮する)均衡論である労働価値説の批判に持ち込んでいるのであって、誤りは岩井先生のほうにあるのではないかと考えられる。また、別のところで岩井先生は「貨幣の自己循環論法理論」(貨幣の貨幣としての価値は、まさにそれが貨幣として使われるからである。)を先生自身の重要な発見とし、貨幣法制説とともに貨幣商品説をそもそも否定しているのであり、商品性が否定される貨幣について商品の価値を説明する労働価値説が成立しないと主張するのは無意味ではなかろうかと思われる。
また、岩井先生はマルクスを相当に読み込んでおられ、事実上はマルクスの価値を十分に評価しているはずである。しかし、マルクスへの言及にあたり使用される言葉にはマルクスを評価する要素はないに等しく、かなり厳しい表現が使われている。例えば次のようなくだりである。
「我々人間にとっては誠に残念ですが、産業資本主義の利潤の源泉とは、人間の労働力が、マルクスの言うように剰余価値を創造する神秘的な力をもっているからではありません」(P194)(筆者注:剰余価値(すなわち利潤)の発生について、レトリック上の使用はあり得ても、マルクスは「神秘的な力」などとは説明していない。)
「そうです。マルクスの資本主義論は、『発展途上国』における資本主義論でしかないのです。」(P195)
「マルクスの『価値形態論』は破綻しました。…………マルクスは、みずからのテクストの中に、みずからの意図に反して、みずからの体系が破綻していることを彫り込んでしまっている。」(P241)
「『シュンペーター経済動学』を書くことによって、マルクスの剰余価値説を相対化することができました。そして、今度は、『貨幣論』を書くことによって、マルクス体系の基本公理であった労働価値説を、イデオロギーとは無関係に、純粋に理論的に捨て去ることができたのです。」(P250)
「私自身は、そのような政治的事件(筆者注:ベルリンの壁の崩壊、ソビエトの解体)を傍らに見ながら、時代に一歩遅れて、マルクスから解放されたのです。」(P251)
マルクスへの言及にあたってのきつい表現の使用、労働価値説批判にあたってのやや無理すじの説明方法、これらに見られる不自然さについては、岩井先生がマルクスについて、自分が書いているような「イデオロギーとは無関係に、純粋に理論的に」という取扱いに実は徹しきれなかったことが現われていると思われる。そこにはマルクス擁護が困難になってきた岩井先生の世代的な事情と学問環境が関わっているものと筆者は推測している。