2015年12月1日
高村薫「空海」(新潮社)を読んだ。心配になった。どの宗教にもいる原理主義的信者は真言宗にもいるはずで、特に真言宗では本書でも指摘されているが、弘法大師への個人崇拝が極めて強く、狂信的になりやすい性質があり、本書を許さない人が出てきて作者に直接行動をとるおそれがあると思われたからである。
本書の始めのほうでは、高村薫といえども何処にでもある空海礼賛の本を書いたのにすぎないのかと、ややがっかりしながら読み進めたのであった。
しかし、さにあらず。巧みな語り口、文章力で非難、批判、攻撃性を感じさせないが、明らかに高村は真言宗を貶(おとし)めている。貶めるべきものであることへの気づきが本書を書くことのインセンティブになっている。書こうというインセンティブの強い、このような本はおもしろいのである。その後は一気に最後まで読み切ってしまった。
空海の大天才によって真言密教というものが我が国にもたらされ、独自の世界が開かれた。しかし、その世界は「空海ただ一人が開き」「空海ただ一人で完結し」たものだと高村は指摘している。
すなわち、空海没後に一時はかなりの衰退をみせ、その後再興された真言宗は、すでに完結していた空海の密教とはまったく異なる、似ても似つかぬ個人崇拝と現世利益追求の別の宗教だったと高村はするのである。
それゆえ、空海のライバル・最澄の天台宗からは法然、親鸞、栄西、道元、日蓮、一遍という世界に誇る日本仏教の革新者が輩出するのに対し、真言宗はその後、革新や進化が起こるべくもなかったとしているのである。
空海の思想とは別物に変質した真言宗を高村は否定していない。それはそれとして日本的な信心としてそれを認めている。現実にそれに救われている人の存在を高村はしっかりと見とどけているからである。
高村薫、そもそもは推理小説から登場したこの作家が今、ここにいることの意義は日本にとって大きい。