2015年11月27日
ある雑誌に拙文を寄稿したので、一部修正して、披露する。
新安全保障関連法案は、それが違憲か合憲かという根本的問題に関して、国民の間に深刻な対立を引き起こし、その決着に何の展望も与えないまま、法律として成立した。
ホルムズ海峡事態といわれるケースにおける集団的自衛権の発動が最も典型的に違憲か合憲かという議論の対象になるのであるが、ホルムズ海峡事態のような海外の事態の発生はなかなか考えにくい。また我が国周辺での事態が仮にあったとしたならば、違憲訴訟を懸念する政府は、それを集団的自衛権の行使としてではなく、個別的自衛権の行使として、防衛出動命令を出すであろう。実際の集団的自衛権の行使が先行して違憲合憲問題の決着が図られるというケースは考えにくいのである。
一方、違憲とする勢力は違憲訴訟の提起により決着を図ろうとするであろうが、政府が違憲条文の適用をしない状態における訴訟提起は、「訴えの利益なし」として裁判所から門前払いを受けることになるのは不可避であろう。これを行政に迎合する司法の不当判断として違憲勢力からは強い非難が巻き起こるであろうが、決着に至る展望が開けるわけではない。いたずらに司法に対する国民の信頼性を損なわせるもので、当然の判断をする司法にとっては迷惑千万なことだろう。
かくして実際に発動されることのない違憲条文は、決着がつかぬまま、相当の長期にわたって国民を二分する空条文として空中浮遊を続けることになるだろう。
このような事態を引き起こした責任は安倍政権にある。新安全保障法制の必要性について、国民世論の有りようを読み誤って、正直に説明をしなかったからである。
すなわち、新安全保障法制の必要性は我が国の「国際貢献」の必要性から説明されるべきであった。しかるに安倍政権は、国民に対中国、対北朝鮮恐怖があると観て、「自衛」という観点、そのための抑止力の強化の必要性という観点から、新安全保障法制の必要性を説明することを選択したのであった。
その結果、議論されるべき内容とは外れた議論が引き起こされることとなった。すなわち、中国を仮想敵国視することの妥当性、抑止力強化の必要性、戦争に巻き込まれる危険性といった議論の内容となって、水掛け論となり、議論の歯車がかみ合わなくなったのである。
そもそも新安全保障法制の必要性議論の淵源は湾岸戦争にあるということを忘れた安倍政権の悪手であったと言わざるを得ない。
中国、北朝鮮の脅威を背景にした「自衛」という観点から生じてくるのは個別的自衛権の問題であり、集団的自衛権の問題とすることに無理があったのである。しかも我が国の存立危機事態においてのみ行使される限定的な集団的自衛権なる概念は、こなれていない珍奇な概念であり、これをわかりやすく説明するなどということはそもそも困難であったのである。そのため、政府答弁は混乱を極め、説明を繰り返せば繰り返すほど国民の不信を高めるという陥穽にはまってしまったのであった。
さて、我が国の「国際貢献」という観点から問題を考え直してみよう。
今日の我が国の繁栄が国際秩序の一定の安定を基礎にしていることについて、終戦直後の小国日本のままであったならいざ知らず、現在の国民の間には共通の理解があると思われる。その国際秩序の安定に対して、いかなる内容の貢献をなすべきかということについては、議論は分かれるであろう。しかし、我が国が何もしなくていいというような議論は考えがたく、何らかの貢献をすべきだということについては国民の間には議論はないであろう。
一定の受益感に応じて納税義務に従うということと相似することといって差し支えないであろう。受益という観点からすれば、国際秩序安定からくる受益感のほうがむしろ大きいとさえいえるかもしれない。
納税と「国際貢献」の違いは、「国際貢献」のほうには法的義務はなく、アメリカ等からの要請があるにとどまり、納税には法的義務があるということである。したがって、我が国は我が国の「相場観」として我が国が支払うべき「国際貢献」の質と量を判断し、国際社会の一員として恥ずかしくない振る舞いを選択しなければならないということになる。
「国際貢献」についてここまでの合意があれば、これまでPKOなどの自衛隊の海外活動を認めてきた実績もあり、与野党間で「相場観」をめぐる議論が十分可能であったはずである。その結果として、かみ合う議論を聴く国民の間にも無用な不信が募る事態を避けることもできたであろう。
失われた信頼の回復を狙って、安倍政権は無茶な経済政策に頼ろうとする兆しを見せている。
安全保障をめぐって国民世論を大分裂させたことは、大きな国損であった。その焦りが更なる国損をもたらすことになるおそれがある。それを心配せざるを得ない。