2015年10月17日


 今年の4月1日から朝日新聞朝刊に「折々のことば」という200字程度のコラムが毎日掲載されていて、本日(10月17日)で194回を数える。哲学者で現在京都市立芸術大学学長の鷲田清一氏の筆になるものである。日常的にも「ことば」が気になる筆者にとって、特定の学識者が日々特別に取り上げる「ことば」に無関心でおれるはずはなく、毎日これを切り抜いてノートに貼りつけることにしていた。

 かつて同じように朝日朝刊に連載された大岡信氏による「折々のうた」が評判高く、短歌、俳句のブームを形成する基礎になったといえるほどのもので、たしか岩波新書にまとめられているはずだ。

 今回もそのようなものとして大きな結実を見せるのではないか、そういった期待のある企画であった。


 しかしながら、「折々のことば」はちっとも面白くない。

 新聞には配達されたらすぐに読むというコラムや連載があったりするものだが、「折々のことば」については切り抜き作業もたまってしまい、その切抜きの時にまとめて読むというようなことに、いつの間にかなってしまった。

 その原因はどんなところにあったのだろうか?


 大岡信氏の「折々のうた」の場合には、取り上げられる短歌・俳句、時々はその他の詩もあったかもしれないが、それらはひとつひとつがそれだけで独立した作品であった。大岡信氏が加える短文は、その解釈を助けたり、別の解釈を導いたり、読者に鑑賞のヒントを提供するものであったが、それらはあくまでも本体の「うた」に「添えられたもの」であった。主役は「うた」にあった。

 一方、「折々のことば」のほうは、提示される「ことば」だけではそのほとんどが、まったくその意味も意義も何もわからないのである。鷲田清一氏の解説によってやっと意味がわかるのであり、その「ことば」の意義は鷲田清一氏が感じている意義を教えられるというかたちで知るのである。要するに、取り上げられる「ことば」のほとんどが独立しておらず、鷲田清一氏の解説に全面的に依存しているのである。主役は取り上げられた「ことば」なのではなく、まだるっこさのある鷲田氏の短文のほうなのである。


 「うた」はひとつの独立した世界を読者に提供していて、その世界を伝えようという意図のもとで創り上げられている。それに対して、取り上げられている「ことば」のほとんどは、メッセージを伝えようという意図が弱く、にもかかわらず第三者から一定の評価を受けたがゆえに消えずに残ったという消極的な性格のもので、鷲田氏にあらためて取り上げられたがゆえにここに登場したという意味で鷲田氏に従属しているのである。

 我々鑑賞者からすれば、結局は統一性のない、説明的で説明不十分な鷲田氏の文章よりは、伝えることに積極的で、メッセージ性の強いものに惹かれることになるのは当然であろう。


 「折々のことば」は「折々のうた」の後を継ぐものとしてたぶん企画され、同じような体裁で提供されることになったため、「折々のうた」と比較されざるを得ない宿命にあった。それは朝日の意図するところではなかったであろうが、その結果、「折々のことば」は200字程度の短い散文の、文章としての成立の困難さを感じさせ、一方で「詩」、とりわけ「うた」「韻文」「定型詩」のパワーの凄さをわれわれに感じさせることになったのである。