2015年10月11日
多層な意識の各層に応じて、日常経験世界ならざる多様な世界が展開するという。そこでは日常経験世界では遭遇できない様々なイメージが満ちているという。
例えば禅の修行によってその日常経験世界ならざる世界に赴き、そのイメージに浸ることができるという。
しかし、それは危険を伴うそうだ。日常生活への無事な帰還ができなくなる恐れがあるというのだ。そうならないように禅では導師という人がついて指導するそうだ。その導師がダメな導師だと無事の帰還が叶わなくなるという。たぶん、外見的には狂気の姿をとるのであろう。その危険を知るイスラム神秘主義でも修行は絶対的権限をもった指導者の下で行われなければならないことになっているそうだ。
LSDが同様な効果をもつというが、ましてその危険は大きいものだろう。
それだけの危険を冒して日常経験世界ならざる世界に行って日常経験できないイメージに出逢うことはそんなに価値があることだろうか?
絶対的で、これしかないと思っていた日常経験世界から実感的に解放されることはできるだろう。日常経験世界が相対的なものでしかないことを心底感じとることができるだろう。しかし、実感的に解放されなくても、観念的に日常経験世界の絶対性が否定できていれば、日常経験世界はかなり住みやすくなるはずで、実感的に解放されるのとどれだけの違いがあるのだろうか?
こんな言い訳を考えて、日常経験世界への無事な帰還ができなくなることを恐れる臆病で小心者の筆者は、自分が潜在的にもっているはずの意識が案内してくれる「トリップ」に出かけることができず、その「トリップ」がもたらせてくれる豊饒なイメージを享受することができないことになる。
と、以上のように常々思っていたが、「トリップ」は可能だということに気がついた。人生ワントリップに終わるのではなく、別のトリップも有り得ることに気がついた。
日常経験世界に戻る必要のない片道切符の「トリップ」ならば、無事の帰還ができるかどうかなどは問題にそもそもならない。すなわち、死出の「トリップ」なら心配無用だ。
日常経験世界での死、すなわち表層意識での死から深層意識の死に至るまでの時間、たぶん脳波は観測され続けるであろう時間、多層な意識が展開し、多様な世界の豊かなイメージを楽しむことができるかもしれない。(認知症や痴呆ではまだまだ表層意識が強すぎると思われる。たぶん臨死状態ぐらいが必要であろう。)その「トリップ」をもはや日常経験世界的感覚で評価することはできないが、展開するイメージのひとつひとつが圧倒的な迫力で身に迫ってくるに違いない。
ただ、そのイメージはいいものばかりではなく、極めて恐ろしい、マイナス・イメージのものである場合もあるそうだ。
「臨死トリップ」は怖さが三分、楽しみ七分の「トリップ」といったところであろうか。