2015年10月10日
般若心経の現代語訳(1089)において「色即是空」の「色」については、アンテナの役割を果たす人間の機能「受」とあわせて、「人が見たり、聞いたり、感じたりすること」としておいた。「色」「受」についてはその内容について「無眼耳鼻舌身意」「無色声香味触法」と言及があり、「色」を五感と「意」の対象としていて、「色」は対象性のある一つの物質世界のように読める。現代語訳もそのようなものとしている。
しかし、「色」は多層性、多様性という性格をもっていて、決して一つではないはずである。しからば、般若心経はその多層、多様な「色」をすべて「空」としているのではなかろうか?
もし、我々の日常経験的な、表層の意識が感知する世界のみを「色」とし、それが「空」である、すなわち「人間が自分たちの都合で勝手に世界を区分けして、考え出したことで、何の根拠もなく、頼りにすることができないものである」ということだけならば、いかにもありそうなことであり、我々の日常感覚でも受け容れ可能なことのように思える。それだけのことを言っているのならば、般若心経もあとひとつ面白味に欠けてくるように思われる。
般若心経が「空」とした「色」は、我々の日常経験的な、表層の意識が感知する世界のみを言っているのではないと考えることができるように思えるのである。
人間の意識の多層性については、西欧ではフロイト、ユング、仏教では唯識論、またイスラーム神秘主義等々で指摘され、深層の意識、あるいは無意識の存在、あるいはその存在を仮定することによる人間理解の深化は、今や否定しがたいものとなっている。現代人がそれによる精神障害の治療効果を享受していることが何よりもその証明であろう。
さて、多層な意識の構造、それぞれの層の性格などについては諸説があるようで、最近では発展する大脳生理学の戦線参加もあって、筆者などが到底近づくことのできない世界となっている。筆者としてはただ、一人の人間に複数の意識がある以上、一人の人間は日常世界のほかに複数の世界を持っている、あるいは持ち得るということが推定できるにすぎない。
そして、日常経験世界からではない様々な世界からのイメージが日常経験世界に報告され、日常経験世界にとどまっている筆者のような人間にもそのめくるめく多様性を垣間見ることができるようになっている。それは例えば、仏教修行、薬物、臨死等による神秘体験、非文明社会あるいは古代の神話、精神障害者発表作品、そして何よりも身近なのは各種芸術である。実に豊かなイメージの宝庫がそこにある。
その豊饒なイメージの世界に入り込むことができて、それを日常経験世界からの解放と感じ、そこに救済を見出す数多くの人がいる。
しかしながら般若心経は、それらもまた、日常経験世界が「空」であるのと同様に、「空」であるとしていると思われなくもないのである。
日常経験世界を撃っていることをもって般若心経をよしとしている人々には、自分もまた撃たれているという問題意識が必要ではないかと考えると、般若心経がにわかに問題化してくる。。