2015年9月9日


 1089(現代語訳般若心経)において「空」を「(人間が感じ、考えることは、)この世の本当の真理とはまったく関係のない、人間たちが自分たちの都合で勝手に世界を区分けして、考え出したことに過ぎず、」と前置きして、直訳的には「世界はそもそも区分けできない曖昧・朦朧(あいまい・もうろう)としたもの」とした。

 発表後、「曖昧・朦朧」というのは情緒的、文学的、視覚的に過ぎるという気がしてきた。情緒的、文学的、視覚的表現はそこからの発展的思考を妨げるもので、理解のしやすさという効果は認めつつも、そこに留まっていてはいけないと考えられる。

 そこで、前置きは維持しつつ、直訳的には「空」を「曖昧・朦朧・混沌・無秩序・無意味なもの」とすることとした。

 「混沌」は情緒的、文学的、視覚的なところが残るが、「無秩序・無意味」はそのような性格はきれいさっぱり払拭されているであろう。

 


 この「無秩序・無意味」の認識こそ、仏教をはじめとする東洋思想が一神教をはじめとする存在一性論(そこでは秩序、意味の存在を確信する。)と根本的に異なる点である。

 自分はどちらに属するか、よくよく考えてみると、よくわからない。すなわち、情緒的、文学的には「無秩序・無意味」派であるが、実際の日々の暮らしは「秩序・意味」派として生きているのだ。