2015年9月6日
立場、思想、利害の違いによって意見が割れ、勢力の強いほうの意見によって決定がなされるというのは通常よくあることだ。しかし、立場、思想、利害の違いがあっても、明々白々で白黒がはっきりしていること、例えば「三角形の2辺の和は他の1辺より長い」というようなことで社会の指導者層で意見が割れ、しかも白黒の黒のほうが選択されるというようなことは、呪術や宗教が支配していた近代以前の非合理の社会はさておき、近代以降の社会で発生したということはまずないであろう。筆者は思いつくことができない。
しかし、驚くべきことに、我が日本において、しかも国会という国権の最高機関において、そのようなことが近々起きる可能性が高まっている。
「存立危機事態」における武力行使が憲法に違反することは、「三角形の2辺の和」のレベルで明らかなことである。元最高裁長官、歴代内閣法制局長官、憲法学者、法曹関係者といった専門家の違憲判断を待つまでもない。若干の解説を要するとしても、中学校、高校レベルの読解力で十分に判断できる問題である。(政府が合憲の根拠としている砂川事件最高裁判決の解釈についても同様。)
違憲の法律が無効であることは憲法に明確に書いてある(第98条)。今、国会がなそうとしていることは、あらかじめ無効であることがわかっている法案を成立させるというものである。国民の選良たる衆参の国会議員が、中・高校生レベルの読解力がないためか、長いものには巻かれろという情けない奴隷根性のためか、損得勘定優先で正しさを犠牲にしてもかまわないという泥棒根性のためか、恥も外聞もなく、「三角形の2辺の和」レベルの明確性を否定し、あるいは無視しようとしているのだ。
「開いた口がふさがらない」にとどまらず、この社会が契約社会であるにもかかわらず契約を結ぶことができる人から成り立っているのか、この社会が合理主義の社会であるにもかかわらず合理的議論ができる人から成り立っているのか、このような社会への根本的な疑問、不信に至る異常な事態と言わなければならない。
ことは最終段階を迎えつつあり、思いとどまる若干の猶予がないわけではないが、仮にこの前代未聞の歴史的大愚行が行われてしまった場合には、後世への戒めとするために(もしかすると後世の物笑いの種になるかもしれないが)筆者は以下を提案することとしたい。
多くの戦争関係の記念碑が立ち並ぶ靖国神社の境内に、「愚者の礎(いしじ)」という名の大石碑を建立し、法案に賛成した衆参の国会議員の名前を深く刻むのである。
そして、この法律に基づいて発出された出動命令によって若き自衛隊員の命が失われた時、3D技術を駆使してあらかじめ用意した国会議員たちの生首のレプリカをさらし首として石碑のまわりに置くのである。
そのぐらいのことをしなければ国家のためと称して命を奪われる若者を鎮魂することはできまい。また、それは人の命を軽く扱う者たちを国会議員として選んでしまった日本国民の慚愧(ざんき)の念の象徴としての意味も持つであろう。