2015年7月24日


 東洋思想には根強く「出世間」「脱世間」の理想がある。「脱俗」「出家」「超俗」などともいう。

 要するにこれは何なのか?要するにこれは「自己の否定」であるということに思い至った。当世風に言えばアイデンティティの放棄、アイデンティティからの離脱である。

 とすればアイデンティティとは何か?


 具体的に考えれば、アイデンティティは性、年齢、民族、故郷、家族、仕事、趣味、ものの考え方などから構成されている。そして、それらは客観的事実としてのそれらではなく、客観的事実を背景にしながらも主観としてのそれらであることに気づく。そして、主観は、他者にそのように差し向けられた主観と他者から独立した主観に分けられることに気づく。「他者にそのように差し向けられた主観」とは他者から期待されている本人の社会的役割といったものであり、「他者から独立した主観」とはそんな役割期待のかたまりである人間社会を超えたレベルでの、すなわち宇宙自然界での、形而上の世界での自分のことである。前者を社会性アイデンティティ、後者を形而上アイデンティティと呼ぼう。


 東洋思想が追求するアイデンティティからの離脱は、してみると社会性アイデンティティのみからの離脱であるのかもしれない。

 西欧思想では、というか一神教思想では、人間は現世でのミッションを神から与えられている。したがって、社会性アイデンティティと形而上アイデンティティに区別はない。アイデンティティからの離脱のあとに残るものがない。

 東洋思想では社会性アイデンティティから離脱したあとに形而上アイデンティティが残る。

 これが東洋思想においてアイデンティティからの離脱が理想として追求されうる理由なのかもしれない。


 さて、社会性アイデンティティからの離脱はどのくらい可能なものであろうか?

 アイデンティティは主観であるから離脱は本人次第で、十分可能と考えられるだろうか?


 自分では離脱したいと思っていても、世間は許さず追いかけてくる。離脱したいと思えばこそ、離脱まかりならんと迫ってくる。

 金銭的債務、組織責任追及、刑事訴追、怨恨等々がそれである。

 「出世間」とは、他者への影響に十分に慎重な、現世での厳しい自己抑制の結果として、やっと望みうるものなのであろう。「世間」に居る間の身の処し方で「出世間」の可能性ははじめから閉ざされているともいえる。