2015年6月28日




 6月27日(土)「朝まで生テレビ」での田原総一朗いわく、安保法制に関しては、テレビや新聞が報道するよりはるかに国会は緊迫している。できるだけ特別委員会での審議を見るようにしている筆者もまったく同感である。

 これまで新安保法制をめぐる問題について種々指摘してきたが、今回は政府側の答弁、とりわけ安倍首相の答弁が、ここまでがけっぷちに追い込まれているという例を報告しよう。




 安倍首相は、自衛隊の海外での武力行使は原則認められない、と言っている。そしてその例外として頭に浮かぶのはホルムズ海峡事態だけだと言っている。原則認められない海外武力行使にもかかわらず、ホルムズ海峡事態において自衛隊が機雷掃海作業をすることが認められる理由は、その活動が受動的、限定的だからであるとしている。この答弁を何度も繰り返している。

 海外での武力行使が原則認められないというのは好ましいことなので、野党はこのことを追及してこなかった。

 安倍首相は、武力行使3原則のうちの「必要最低限」という原則に抵触するから海外での武力行使は原則認められないのだ、としてきた。

 しかし、野党もついに気がつくこととなった。安倍首相が海外での武力行使は原則認められないとしている根拠となっているのは、集団的自衛権行使容認後の新しい武力行使3原則なのではなくて、個別的自衛権行使のみを認めていた時代の古い武力行使3原則の中の「必要最低限」であったのだ。

 我が国が武力攻撃を受けるという急迫不正の事態への対処(=個別的自衛権の行使)において「必要最低限」として海外にまでは行かないというのは、自然な論理である。

 侵略を排除できれば敵国にまで乗り込んでいく必要はない、という論理である。

 しかし集団的自衛権行使の場合においては、「必要最低限」と言っていればおのずと海外には行かないことになるという論理は成立しない。

 もし、海外に行かないのが原則だというのであれば、それはあらためてそのことをどこかに規定しなければならないのである。

 根拠なく、しかるべき法律的手当てもしないで、海外には原則行かないなどと言うのは、リップサービスでしかない。

 以上を自覚していたとすれば、戦術的国民欺瞞でしかない。ばれたら即刻政治家を廃業せざるを得なくなる。




 原則が規定されていなければ、例外の規定のしようもない。

 受動的、限定的な場合としてホルムズ海峡事態を例外とするならば、「受動的、限定的」という語をきちんと定義して、それを例外とする法令が必要である。

 現在は安倍首相が口で言うだけで、その根拠はどこにもないのである。

 それは実は当たり前なのであって、「存立危機事態」というような事態が実際に発生した場合、それへの対応が「受動的、限定的」なケースに限られるなどという馬鹿なことがあるはずがない。

 定義上「存立危機事態」を放置すれば、我が国は存立の危機を迎えるのである。

 「受動的、限定的」対応だけをするなどということはあり得ない。

 本当に「存立危機事態」ならばその事態を解消するためには国際法上許される最大限で全面戦争に突入するのである。




 集団的自衛権の行使に関する根本的原則がこのような状態である。

 いわゆる「歯止め」があるが如く、無いが如く、安倍首相の答弁からぼんやりとした各人各様のイメージを抱かされているにすぎない。

 これは法治主義とは呼ばない。法治主義の「ほ」もない状態だ。




 このことを内閣官房、内閣法制局、外務省、防衛省が気づかないはずはない。気づいているけれど安倍首相に直言していないと推測される。

 独裁政治、専制政治というのは意志決定の迅速という意味で一見効率がいい。しかし、制裁を恐れるがゆえ、情報の伝達が著しく低下し、究極的効率性は劣る傾向がある。

 その傾向が見えてくると専制君主の退陣は近い。