2015年6月27日
状況証拠によって砂川事件最高裁判決は新安保法制を合憲とする「根拠」とはなりえないという説明がある。それは正しい主張なのであるが、一般の人々はそれを確かめるのがなかなかむずかしい。
確かめようがないので、相対立する主張のどちらを信じるかという問題になってしまう。
そのことを避けるため、状況証拠的要素は省略して、判決文そのものから砂川事件最高裁判決が新安保法制を合憲とする「根拠」となりうるかを検討する。
砂川事件最高裁判決には次のような部分がある。(その部分を含む判決理由一については文末に掲げる。必要と考える場合にはお読みあれ。)
「同条(注:憲法第9条)は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。」(①とする。)
「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。」(②とする)
「わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢に実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであって、……」(③とする)
出たり入ったりがあって政府が現在の立場をとるようになったのは3人の憲法学者の違憲論に対する6月初旬の政府見解からであるが、政府は現在この最高裁判決を、新安保法制に盛り込んだ限定的な集団的自衛権の行使が合憲である「根拠」としている。
検討すべき問題は、上に引用した「自衛権」の行使を容認する最高裁判決が、無限定、無条件に「自衛権」を容認していると読めるかどうか、というところにある。
政府は、新武力行使3要件において「存立危機の事態」「他に適当な手段がない」「必要最低限」という3条件のもとで集団的自衛権の行使が認められるとしている。
①は、「主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく」として無限定、無条件のようであるが、結論部分で「無防備、無抵抗を定めたものではないのである」とあり、「いささかの、最小限
の自衛権さえ認めないとするのはいくらなんでもひどすぎる」というニュアンスが感じられる。しかし、いずれにしろ条件を付しているわけではない。
②は、「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な」という文章上での条件があるが、そのような場合の措置を自衛というのであるから、何らの条件も付していないことになる。
③は、「その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り」と「国際情勢に実情に即応して適当と認められる」という条件を明らかに付している。前者は「必要最低限」と解することができるし、後者は「他に適当な手段がない」と解することができる。なお「適当と認められるもの」と「もの」ということばを使っているのは、最終的判断対象が「戦力」としての駐留米軍であったことの反映である。個別的自衛権、集団的自衛権を「もの」ということは考えられず、ここでは個別的自衛権、集団的自衛権が想定されていないことが推定できる。
以上の引用した判決理由からすれば、新武力行使3要件を超える条件は付されてはいないので、新武力行使3要件のもとでの集団的自衛権の行使を合憲とする政府の立場は肯定される、ように感じられる。
しかしながら、引用した判決理由の直後に、次のような重大な部分がある。
「同条(注:憲法第9条)二項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として」
すなわち、判決はここで自衛隊が違憲か合憲かの判断を回避しているのである。そして駐留米軍はわが国が指揮権、管理権を行使できる戦力ではないので憲法9条が禁止している戦力ではないという結論に至っている。
判決理由の中の①、②、③が「その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り」と「国際情勢に実情に即応して適当と認められる」という2条件のみで自衛権の行使を認めるものならば、「自衛のための戦力の保持」についての判断が回避されるはずはない。回避する必要はひとかけらも生じることはなく、自衛隊を合憲と結論できるはずである。
このような判断回避、判断保留が生じている理由は、①、②、③が駐留米軍によるわが国の防衛が合憲であるという結論を導く目的をもって使われた行論上の文章であって、当該事柄を取り出して検討した結果下された結論的なものではないためである。このため①、②、③はその文言のまま100%受けとめることはできず、その規範性、拘束性について限定的な評価しかできないのである。
実際、自衛隊の合憲性についてはその後も議論の対象であり続け、政府の明確な判断はいわゆる「47年見解」を待つことになる。
このように砂川事件最高裁判決が集団的自衛権行使合憲の「根拠」というような主張は、その世界においては非常識なつまみ食いというべきレベルのものである。
筆者の知るかぎり、砂川事件最高裁判決が集団的自衛権行使合憲の「根拠」であるとしている法律家は高村自民党副総裁だけである。与党協議で公明党はこれを「根拠」とすることを問題とし、与党協議の合意からこの部分は削られていた。横畠内閣法制局長官は決して「根拠」とは言わず、「重く受けとめる必要がある」というような言い方しかしない。3憲法学者の違憲論が出るまでは政府もこれを封印してきたのである。憲法学者に負けないためには最高裁を持ち出すしかないという戦術的判断で、すなわち御都合主義で、すなわちこの際国民を欺くほかなしという犯罪的判断で、砂川事件最高裁判決がよみがえってきたのである。
焦りの結果の凡ミスではあるが、今や、いささかの躊躇もなく、毒食わば皿までという勢いで、「根拠」と答弁されている。
このような無理は長くは続くまい。筆者には断末魔の悲鳴と聞こえる。
【砂川事件最高裁判決・判決理由一】(読みやすいように適宜改行した。)
一、まず憲法九条二項前段の規定の意義につき判断する。
そもそも憲法九条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤って犯すに至った軍国主義的行動を反省し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであって、前文及び九八条二項の国際協調の精神と相まって、わが憲法の特色である平和主義を具体化した規定である。
すなわち九条一項においては「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」することを宣言し、また「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と規定し、さらに同条二項においては、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定した。
かくのごとく、同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。
憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。
すなわち、われら日本国民は、憲法九条二項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによって生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによって補い、もってわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。そしてそれは、必ずしも原判決のいうように、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢に実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであって、憲法九条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。
そこで、右のような憲法九条の趣旨に即して同条二項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となってこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条一項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。
従って、同条二項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれが我が国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。