2015年6月5日
朝日新聞朝刊に毎日掲載されている哲学者鷲田清一氏の「折々のことば」、6月4日にこれがあった。
「 いい思い出だけが残ること、それが成仏と言うんです 橋本峰雄」
これを読んで筆者が解釈したのは、いよいよ死ぬ時に、この世にいい思い出だけをもって死ぬのが成仏だ、別に言えば、悪い思い出はすべて忘れて死ぬのが成仏だ、ということであった。
「折々のことば」には鷲田氏のショート・コメントが付いている。
それによれば、すでに死んだ人のいろいろな思い出が、時の経過とともに、いい思い出だけが残るようになってくる、死んだ人がそうなればその死んだ人は成仏したと言うのだ、というのである。
要するに、筆者の解釈は死ぬ本人にとっての成仏の自覚のことであり、鷲田氏の解釈は遺された人の、亡くなった人が成仏したかどうかの理解のことなのである。
解釈を争っても仕方がないが、筆者の解釈であれば成仏はけっこう有り得ることである。一方、鷲田氏の言うように、時の経過とともにいい思い出だけが残るようになるということは、必ずしもあるとは言えないと思われ、筆者の解釈より成仏の確率は低くなる。
死ぬ本人からすれば、筆者の解釈では成仏如何は自分の問題であるが、鷲田氏の解釈では成仏如何は他者に委ねられることになってしまい、本人にとってはいささか心もとない。
鷲田氏の解釈は遺された者の死者に対する心の持ちようを説くものであるが、筆者の解釈は生きている者への自分の死に対する心の持ちようを説くことばということになる。
実は、ことばを発したのは京都・法然院の前貫主であり、鷲田氏は梶田真章貫主からこのことばを聞いたのだそうである。しかも、内容を聞いてそれをこのことばにしたのは鷲田氏自身だと思われる。
したがって、解釈の軍配はそもそも鷲田氏の方に上がっていたということになる。そうではあるが……