2015年5月24日
明治22年(1889)2月11日、大日本帝国憲法発布の日の朝、文部大臣森有礼(ありのり)(薩摩出身、41歳)は、永田町大臣官邸において、長州出身西野文太郎(23歳)に暗殺された。凶器は出刃包丁であった。西野はその場で警護の者によって仕込み杖で斬り殺された。
その西野文太郎の遺書とも言うべき2月8日付の父親、母親、そして弟妹への手紙が、驚くべきことに、事件直後の3月11日に出版された「刺客西野文太郎の伝」に掲載されている。
この出版の背景には、「国家の柱石、教育家の泰斗たる森大臣に不義非道なる刃を加えたる兇徒西野文太郎」とされているものの、暗殺者西野への発行人の共感があったことが推察される。
同書には「精神一到何事か成らざらんとは古聖の言なり。西野文太郎は恒にこの言を服膺し身は野に在ると官に在るとを問わず専ら攻学に意を注ぎ……其の読む所の書と云えば維新前後勤王愛国の為に忠死したる人々の遺書にあらざれば、近頃熱心に学び始めたるドイツ学の初歩なりしという。殊に同人の好んで読みたるは故吉田松陰の遺稿なる武教講録にて三度の食を廃することあるもこれが講読を廃したることなしとかや」「西野は勤王愛国の精神に富み、かつ将来なすあるの大志を抱きながら」などと西野が各所で持ち上げられている。
森有礼は英語国語化の主張、契約書締結結婚などに象徴される極端な欧化主義者であり、事件直前には、事実かどうか疑問視されているが、伊勢神宮ですだれをステッキで上げたり、拝殿に土足で上がったりする不敬事件を起こしたとされていたのである。
さて、筆者は映画「日本橋(玉三郎、高橋恵子)」→原作の泉鏡花「日本橋」→当時の日本橋を知ろうとの小村雪岱「日本橋檜物町」、長谷川時雨「旧聞日本橋」という経過をたどって国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」にある本書に至った。PDF形式というのであろうか、当時出版されたものの写真版である。文章は変体仮名が使われており、手紙は候文である。まずは一般にはなかなかお眼にかかれるものではないであろうから、テロリストの家族あての遺書がいかなるものなのか、読みやすく書き直して披露させていただこう。
(文太郎 父に送りし書)
「 一翰拝啓、寒威なお烈(はげ)しく候(そうろう)ところ、ますます御多祥の段、欣賀奉(たてまつ)り候。陳(の)ぶれば、小子(=小生)、このたび、大臣を刃傷に及び候は、別紙趣意書の如き次第につき、御一覧あそばされたく候。この儀は一朝一夕の思い立ちにはこれなく、去年徳島にまかりあり候時よりの企てに御座候。それゆえ、旧臘(=昨年12月)にわかに帰省候もまったくおいとまごいのつもりにこれあり候。もっとも(不敬事件について)実地につき取調べ候うえならでは決心いたし候わけにまいらず候ゆえ、上京の途次、ちょっと参宮(=伊勢参宮)、聞き合わせ候ところ、果たして聞きしに相違これなく、ここにおいて断然決意、時機を相伺いおり、ついにこのたびの次第に立ち至り申し候。君主の馬前に討ち死に候は男子の本分とはかねがね仰せ聞かされ候儀にこれあり候ところ、小子、このたびの死は世人は狂と呼び賊と呼び候わんも計りがたく候えども、自心には、君主の御ため、討ち死に候に同様と存じ候間、御愁傷あそばされまじきよう願い奉り候。ひとり二十余年海山の御厚恩を受け、露塵も相報い申さず、先だち候段、いかにも残念に御座候。しかし小子一人にて他に兄弟なきも致し方これなく候に、信助(=弟)、みち(=妹)の御座候は何よりの大幸、文(=文太郎)も安心つかまつり候。このうえは申すまでもなく、信助に家名相続候ようお取り計らいあそばされ、幾百年もめでたくお暮しあそばされたく祈り奉り候。まずはおいとままで、かくのごとくに御座候。草々 文太郎 泣血再拝 二月八日 御父上様膝下 」
(同 母に送りし書)
「 一筆申し上げ候。寒さ今もってはなはだしく候えども、御機嫌よく御座遊ばさるべくめでたく存じ奉り候。私このたびの一件お聞きあそばされ、さぞさぞ御驚きあそばされ候ことと存じ奉り候。実は以前より思い立ち候儀につき、先般ちょっと帰省候もまったくおいとまごいのつもりにこれあり候。それゆえ、お別れ申し候節は誠に残り惜しく、不覚涙をもよおし候。つらつら世の子を失いし親の心を察し候に、自分の不自由、難儀はうち忘れ、ひたすらその子を不憫に思い候ようにこれあり候。病気又は不意の災難にて相果て候はその身において死を願わず候ゆえ、いかにも不憫にこれあるべく候えども、文(=文太郎)がごときは自身に好みを求めてなしたることゆえ、あたかも酒や肴の御馳走に相成り候ようにうれしく、楽しく候間、決して御愁嘆あそばされまじく候。申すも愚かに候えども、先日上京の途中難船にて相果て候か又は一昨年脚気にて死去候とも致し方これなくには御座候わずや。人はいかに申し候や存ぜず候えども、このたびは、いささか君のため、国のためと存じてのことに候えば、御愁嘆あそばされ遂には御病気なぞ御引き起こしなされ候の儀これあり候ては、おそれながら御未練の御振舞いと存じ奉り候間、くれぐれも御心持を勇ましくあそばされたく願い奉り候。この後は信助、みちを私の代わりに御愛育のほど願い奉り候。まずはおいとまごいまで。かくのごとくに御座候。 草々頓首 文太郎 泣血再拝 同日 御母上様膝下 」
(同 弟妹に送りし書)
「 拝啓 相変わらず御孝行、御勉学と存じ奉り候。文(=文太郎)こと相果て候うえは御両親様御こと、ひとえに願い上げ申し候。常々大日本帝国の臣民西野家の子たることを御失念なされまじく候。すでに西野家の子たることを忘れずんば、孝親の心自ずから生じ、大日本帝国の臣民たることを忘れずんば尊皇愛国の志自ずから生ぜん。文太郎 謹言 同日 信助殿みち殿 御許へ」