2015年5月22日
小説家島木健作著「満州紀行」を読んだ。1931年の満州事変から1945年の太平洋戦争開戦まで満洲開拓のために送り込まれた日本人は約27万人に及ぶという。その満洲開拓についての人々の「気持ち」「雰囲気」といったものを文学作品から知ろうという狙いからの読書であった。しかし、この作品は作者自身が次のように書いているごとく、小説的なものではなく、ルポと論文の間に位置するような作品であった。
「私とても、自分の北満(北部満州)における見聞を伝えるのに、このような骨張った文章の形式によることが何も楽しいわけではない。描写しつつ、四囲の自然と人事とをふっくりと味わいつつすすむ、紀行文とか旅行記の類が書きたく、それが作家に似つかわしいことだと思わぬではない。しかし私はまた、開拓地においては、何が当面の、主要な問題であるかと言うことを、より直接的な、端的な形で持ち出してきて、多くの人々と共に考えたいという願いをも、抑えることができないのである。」
島木健作は、我が国文学史に特別なジャンルをなしている転向文学(共産主義者であったが、官憲による逮捕・拘禁、あるいは拷問により、共産主義を捨てることを広く宣言することとなった一群の人々による文学。作家としては例えば、中野重治、高見順、林房雄。)の作家である。
しかし、そのことから社会主義的傾向のある島木健作が日本の満州進出を侵略ととらえ、そのような視点からこの「満州紀行」を書いていると考えるのは間違いである。
「満州紀行」刊行は昭和15年(1940年)4月であって、収録作品中初出が明らかなものは「文芸春秋」「文学界」である。太平洋戦争突入間近の時期で当然検閲を受けているであろうし、満州進出を歓迎し、明るく受けとめている一般国民が読者となっている雑誌での発表である。
作品中には日本の満州進出を批判する表現は皆無である。
もちろん島木健作にこの作品を書かしめたものは満洲開拓についての彼の問題意識である。しかし、それは広大な開拓地における個人の農業経営の無理、採用すべき農法の誤り等々であって、決して満州進出自体を彼は問題にしてはいない。
厳しい弾圧によって農民運動、労働運動に挫折し、日本国内でのしかるべき人生の道を絶たれた当時の若きインテリゲンチャたちにとって、満州は国内の農業問題(地主・小作関係)を解決し、大規模自作経営が期待できる理想の舞台であったのであって、島木健作もその理想を共有する一人であったのである。
そして、それゆえに、すなわち島木健作に満州進出それ自体に批判的スタンスがないゆえに、彼の文章にふと顔を出す、意図的ではないくだりに、満州進出を単に進出とは言えない、侵略性があったという事実をわれわれは見つけ出すことができるのである。
そのような文章を以下に掲げよう。
「ところで、それにもかかわらず、実際の耕作地は、この能力によるものをはるかに越えている。(注:個人自作経営が目標とされたにもかかわらず、1戸当たり10町歩、20町歩と割り当てられた広い土地を自家労働力では耕作し得ない。)それは年々ふえつつある。これはどういうことなのであるか?
いうまでもなく、よそからの労働力が使われているのである。満州人の労働力が使われているのである。私があるいた開拓団で、農耕に満人の力を使っていないところは一つもなかった。」
そのような満人は開拓団が入ってくるまではどこにいたのであろうか?
「彼等は一口に苦力(注:クーリー)と呼び慣らされているけれども、これはむろん正しい呼称ではない。雇われる者の第一は、今まで開拓地内にあった原住民であって、日本開拓民が入ってきたために、早晩この土地を去らねばならぬ運命にある者である。彼等があるがために、彼等がそのような運命にあることのために、日本開拓民は、当面必要な労働力に事欠かぬという状態にある。」
そして、次のように雇用労働力として使われるばかりではなかった。
「彼(注:日本人開拓民)は日々生活している。現存の条件の下において自己に最も有利なやり方を考えるのは当然である。満人をして小作せしめる、ということもそのために取られた道にほかならない。」
満人の住居も使われる。
「300戸(注:開拓団の)を5部落にわかち、1部落は40戸の密居形式である。第1部落48戸、第2部落41戸の家屋の建設は、去年の秋に完成したのだが、あとの3部落の建設は今年の仕事である。それまでは人々は満人の立ち退いた家に住んでいる。」
要するに以下のようなことが実態であったのだ。
「入植ただちに1戸当たり1町歩余りの水田既耕地を持つという」
「しかし日本人入植以前に、それだけの水田があったということは、少なからぬ鮮人農民がいたことを意味する。彼等と、そうして今開拓民が住んでいる満人農家のもとの住民たちは?
『今年は、鮮人、満人250戸ほどが立ち退きました。以前の村長(満人)は、今、団(注:開拓団)に雇われ、団と在来民(鮮人、満人)との交渉の間に立っています。』
立ち退いた者は、どのようにしてどこへ行ったのであるか?ここの人々からはそれについてほとんど聞くことはできない。」
満人からの土地収用は一応売買の形式がとられていたようである。しかし、支配・被支配、優位・劣位の関係にある民族の間で、しかも交渉不成立ということが許容されない状況において、たとえ形式的には強奪ではないとしても、既耕地からの鮮人、満人の強制的排除が事実上行われたことは否定しがたいと思われる。
その具体的数値が明らかになりえないことは、慰安婦問題、南京虐殺と同様である。しかし具体的数値が明らかになりえないことと事実があったかどうかということとは別の問題である。