2015年2月25日


 昨年7月の集団的自衛権の行使容認の閣議決定以来、それまでの我が国の安全保障をめぐる議論はすっかり矮小化されてしまった。

 すなわち、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがある事態」、いわゆる「存立事態」における集団的自衛権の行使が憲法9条違反ではないかどうかということが議論の中心になっている。ということは現在の議論の中心はもっぱら我が国の防衛だということである。

 


 しかしながら、思い起こすまでもなく、それまでの議論は、我が国の防衛ももちろん問題であったが、わかりやすい言葉使いをすれば、「ならず者国家」との戦いに我が国が国際社会の一員としていかに関与すべきかという問題が重要なもう1つの柱をなしていたのである。

 言うまでもなく、この問題はイラク戦争における日本の非軍事的貢献が国際社会でほとんど評価されなかったというショックが喚起した問題であった。

 この問題を正面に据えるのをやめる選択は安倍首相の選択であったことは疑いない。この問題に深く関わってきた石破茂は問題の矮小化に抵抗を示していたが、安倍に敗北した結果、すっかりおとなしくなって安倍に尻尾を振っている。

 そして、安倍の選択が我が国の防衛に議論を集約し、現憲法下での集団的自衛権の行使を容認して終わるものでないことは天下の常識である。

 それは今のところ内実を伴っていない安倍の「積極的平和主義」という言葉に象徴されているし、集団的自衛権の行使が容認されたから憲法改正は必要ないなどという判断がどこからも出ていないこともまたそのことを明々白々に示している。

 当面それが否定されようと、「積極的平和主義」の実質とは「ならず者国家」殲滅有志連合に日本も武力をもって参加する、憲法改正によって参加するということにほかならない。


 この本来の議論にもどれば、問題の焦点は「ならず者国家」の認定要件、言い換えれば「ならず者国家」殲滅作戦に我が国が参加する要件をいかに設定するかということでなければならない。

 そして、けしからぬことに、安倍の作戦はこの要件問題を一時的に棚上げしようとするところにある。

 その心は、要件が国連決議となってしまうことを回避して、国連決議がない場合でも有志連合への参加が可能となる道を残す必要があるというところにある。


 現在議論になっている自衛隊による多国籍軍への後方支援はその前哨戦である。

 本作戦の前哨戦であることの認識が不足して甘く対応していると、前哨戦での結論がそのまま憲法改正後の「ならず者国家」殲滅作戦に適用されて「あとの祭り」となる。


 筆者は、しかるべき要件のもとという条件で、我が国は「ならず者国家」殲滅作戦には参加せざるを得ないと考えている。

 そのために自衛隊の若い人々に犠牲が出ることを我が国は覚悟せざるを得ないと考えている。

 それだからこそ、矮小化された現在の安全保障論議に惑わされることなく、正面からの要件議論が国民的に展開されなければならないと考えるのである。