2015年2月10日
「撃った人が黒人なら黒人という人種が有罪で、イスラーム教徒ならイスラームという宗教が全体で有罪で、犯人が白人ならメンタルにおかしい一匹狼だとされる」。これは「世界3月号」に掲載された酒井啓子千葉大教授による「シャルリー・エブド襲撃事件が浮き彫りにしたもの」からの孫引きで、シャルリー襲撃事件直後、アメリカで出回ったとされるツイッターである。
何か事件が起きたとき、犯人が特定のマイノリティ集団に属していると、事件の原因を犯人がその集団に所属していることに帰してしまうという傾向があることを否定しがたい。
このような傾向を呼ぶ理由は、1つは個別的具体的原因追究の煩瑣を避けて、わかりやすさを求める社会全体の知的怠慢であり、もう1つは自分はその集団に属していない、それゆえ自分はそのような罪を犯す危険からセーフであるという個人的安心感獲得要求である。
そして、このような傾向の背景には、社会が正統・中心・優等から異端・周辺・劣等に至る階層構造によって形成されているという認識がある。このような認識は社会全体にいつのまにか醸成されている。この認識は知的レベルの高い人々にも広がっているものであるが、その非科学性、非客観性は論ずるまでもない。
さて、それがいかに非科学的、非客観的であろうと、現実にそのような認識が社会に蔓延している以上、社会にはそれによって自分たちを正統・中心・優等と自己肯定的に認識できる幸運な人々と、自分たちを異端・周辺・劣等と自己否定的に認識せざるを得ない不運な人々が存在する。
いささかなりとも自己肯定感を享受している我々は、自己否定感にさいなまれる不運な人々の立場に身を置いて、彼らのやりきれない思いを心の底から想像することがなかなかできない。
若く、頭がよく、リーダーシップのある人間が、この不運の集団に属している場合、そのやりきれない思いは彼らを極めて自然に、社会の価値秩序を破壊する思想に導くことになる。正当と異端、中心と周辺、優等と劣等とを区分する価値秩序を破壊する思想である。
その大きな役割を果たしたのが、かつてはマルクス主義であった。戦前の日本では「近代の超克」思想が対西欧コンプレックスを吹き飛ばした。そして、今、その役割をイスラームが果たしている。
マルコムXを思い出す。彼は1965年に39歳で暗殺された公民権運動の活動家である。穏健派のキング牧師に対して彼は過激派とされた。黒人であるゆえの救いのなさの自覚から彼は自暴自棄になって、ばくち、麻薬取引、売春、ゆすり、強盗等の犯罪を繰り返していた。イスラームを知ることによって目覚め、黒人解放運動の指導者となったのであった。イスラームが異端・周辺・劣等であるという苦悩から彼を解放したのであった。ボクシング・ヘビー級チャンピオン、カシアス・クレイをイスラームに導き、モハメド・アリと改名させたのも彼であったと言われている。
そもそもほとんどの宗教や解放思想は、このような集団的自己否定を克服するものとして芽生えてくるものである。
我々は異端・周辺・劣等とされる人々を異端・周辺・劣等とまずもって認めるべきでない。彼らの生活、文化、伝統、思想を知るべきである。そこから生まれるはずの自然な敬意に基づいて、異端、周辺、劣等とされる人々と接するべきである。それは彼らを異端、周辺、劣等の意識から解放させることにもつながるであろう。
(イスラームについて言えば次のようなことを忘れるべきではない。すなわち、我々の近代文明は西欧のルネッサンスを起源とするものであり、そのルネッサンスは西欧が十字軍の遠征でイスラーム文化と接触したことによって発生した。当時のイスラーム文化は世界最先端の文明であった。それは、西欧が継承していなかったギリシア文明を唯一引き継ぐ文明であった。すなわち、我々の近代文明はギリシア文明との媒介をイスラーム文明に負っているのである。)
また、我々は自分たちの生活、文化、伝統、思想を客観的に知るべきである。客観的に知るというのは、人類史の中に我々の生活、文化、伝統、思想を位置づけるということである。それができていれば、我々が異端、周辺、劣等とされたとき――それは必ずしも非現実的想定ではない――そのときに、我々は、そして我々の子孫は、そのことに動じないで生きていくことができるだろう。
いずれについても――すなわち、彼らについても、自分たちについても――無知であることから発生する冒頭のツイッターの指摘するような傾向が、無知による軽蔑、軽蔑への過激な反発、それへの報復、といった悪魔の連鎖を呼ぶ。
この悪魔の連鎖からの脱却は、異端・周辺・劣等をでっち上げている価値秩序を根本的に反省することから始まる。