2015年2月8日
イスラム国への対応について、国会で、マスコミレベルで、議論が混乱している。混乱の原因は明らかである。次元の違う問題が整理されることなく「ごちゃまぜ」で議論されている。
イスラム国問題で第一義的に問題にされなければならないのは、この問題にいかに対処するのが「正義」なのかということである。
「国益」の問題、すなわち如何に対処するのが我が国にとって「利益」であるのか、ということは第二義的問題である。
さらに第一義的問題、第二義的問題への対処の結果生じるリスク、そしてそのリスクへの対応方法の問題は、その後の問題である。
にもかかわらず、第3の次元の問題、例えば海外における邦人の危険が増大する問題、イスラム国支配地域をはじめ中東地域における我が国マスコミの取材が困難になる問題などが、第一義的問題の判断を制約するようなこととして議論が行われている。不毛な議論、転倒した議論、議論のための議論というほかはない。
第一義的問題への対処は、第二義的問題、すなわち国益の問題、またその後のリスク問題に優先する。
第一義的問題から離れた、第一義的問題から説き起こし得ない我が国の対応方針の決定は、まちがっている。言葉からの必然的帰結として「不正義」である。
もちろん、「正義」の裏に「国益」あり、「リスク回避」ありという現実はある。だからといって、建前にしろ、「正義」の問題を避けることはできない。
国際政治における「正義」が実際には先進国利害を反映したものだとか、世界資本主義の要求を背景にしたものだという議論はある。
そのような議論からの問題提起に謙虚である必要はある。その上でも「正義」の観点からの問題アプローチを避けることはできない
その「正義」の観点から、一方の極端には、他国の紛争に、しかも国内紛争的要素をかなり含んだ紛争に外国が関与すべきではない、その抑制的態度こそ国際政治における究極的「正義」であるという考え方があり、他方の極端に、イスラム国は人道上許されない犯罪集団であり、犯罪集団を実力をもって取り締まることは警察権の行使であり、国際法上の「戦争」には当たらず、したがって憲法9条の制約はなく、立法措置をもって自衛隊をイスラム国壊滅行動に参加させるべきであるという考え方がある。
いずれの考え方にもリスクがある。しかし、次元の違うリスクの問題によって最高次元の問題である「正義」が引っ込むということは理論的にありえない。
筆者は、極端例に挙げた後者の考え方に立つ。もちろん、非軍事人道支援も肯定した上での考え方である。その後の問題であるリスクへの対応の必要も言うまでもない。
その上で、自衛隊の実力行使によるイスラム国への対応を行いうるとすれば、それは「国益」と離れた、リスクを超えた、人類的「正義」のためのものと積極的に評価する。
「正義」の名のもとに「国益」を図る行為は醜悪であり、その極端例が侵略である。(そのことへの問題意識、過去への反省が希薄なのが安倍首相の「積極的平和主義」の根本的欠陥である。)
だから自衛隊の実力行使にあたっては、我が国にそのような醜悪は許さないという制度的枠組み(参加要件としての国連決議、国会の事前同意、関連情報開示等)を設け、国民によって十分な監視が行われなければならない。
そして、そのような措置を講じても境界線上に常に「国益」というものが頭を出してくるものであることを忘れてはならない。特に活動目的終了後の体制を考慮すると「国益」から離れたままでいることは極めて困難である。
しかし、それを理由として「正義」の実現のための行動を回避することはできない。
ここにフリージャーナリズムの役割があらためて強調されなければならない局面がある。
「正義」への「国益」(=エゴイズム)の介入を監視し、絶えず警告を発し、国の醜悪な活動を防止するために活躍すべきものこそフリージャーナリズムである。
戦争の悲惨を人々に伝えることはフリージャーナリズムの重要な機能である。しかし、それを伝えるにとどまっているとすれば、それは中途半端なヒューマニズムと言わざるを得ない。
「正義」への「国益」(=エゴイズム)の介入を監視、警告する装置としての役割をも果たしてこそ、フリージャーナリズムの役割は貫徹される。
そのようなフリージャーナリズムがあってこそ、「正義」は憂いなく「正義」を追求できる。