2015年2月3日


宗教が「絶対」「真理」の立場にあるものである以上、理屈上は、他宗教、他宗派の教義に対して寛容である余地はない。

 それは科学がある理論を確定とした場合、他の理論の成立余地を認めないのと同じである。

 この宗教と科学との類似は、宗教における寛容の余地についての推測に参考になる。

 

 宗教が「絶対」「真理」の立場にあるといっても、その「絶対」「真理」の立場には多様なものがありうると考えられる。

 「絶対」「真理」は存在する、しかし、人間はそれを仰ぎ見ることができるだけであって、人間がそこに到達することはできない、という意味での「絶対」「真理」の立場というものはある。

 ある宗教がそのような立場にあれば、その宗教にとって、他宗教、他宗派は、自分たちと同じように、到達できない「絶対」「真理」に到達すべく苦闘する同胞という見方が成立する。

 山頂を別ルートで目指す登山者を仲間と見るのに似ている。

 いや彼らとは目指す山頂がちがうのだと断言できるか?

 「絶対」「真理」に人間が到達できない以上、それを断言することはできない。

 これが寛容がありうる第一の場合である。

 

 「絶対」「真理」が人間にとって優しいものではないことがわかった場合、人間は「絶対」「真理」に支えられることなく「混沌」の中に放り出されている存在であることがわかった場合、同じくそのことに気づいた他宗教、他宗派に対して、あるいは空しく救いを求める他宗教、他宗派に対して、ともに見放された者として、憐みの共感をもつことができるだろう。

 これが寛容がありうる第二の場合である。

 

 いずれの場合も、利害得失の立場に立たず、面子にこだわる小心を捨て、知的誠実をもって、ことに臨むことが前提となる。

 大宗教と言われる宗教、宗派において、寛容がありうることに気づいている知的リーダーが存在していることはまちがいない。