2015年1月22日


 宗教が他の宗教、宗派にたいして不寛容であって、その不寛容がヒューマニズムに真っ向から反する大量虐殺にまで至ることについて、日本人はまったく理解できず、そのような事態をもたらす宗教というものを異常なもの、極端なもの、非人間的なものと見なしがちである。そう見なすことは人間として極めて当然のこと、自然なことと考えがちである。

 それは「宗教音痴」ともいうべきものであって、そのような「宗教音痴」では諸宗教、諸宗派を和解に導くことなどは決してできない。

 宗教間の争いによって現実生活の平穏を失い、豊かさを失うことに何の意味があろうか、宗教こそ現実生活に平穏と豊かさを得るという人間的目的のためのもののはずであり、宗教がかえってそれを阻害するというのはナンセンスというほかはない。こういうものの考え方を当然と考え、正当と考え、人類共通と考えるのは、宗教についてちゃらんぽらんな考えを持ちがちの日本人の特性である。


 日本人(こういう括り方には問題があると思うが、ことをわかりやすくするために敢えてこの言い方を続ける。)は、現実生活の苦悩、苦痛を解消するもの、緩和するもの、現実を生きやすくするものとして宗教を考えている。宗教を言わば現実生活のための手段として考えている。

 しかし、宗教一般はそのようなものではない。人間ひとりひとりの存在に意味がある、生きていることに意味がある、生き続けていくことに意味がある、という「意味」の根拠を人々に明らかにするもの、それが宗教である。

 そこには、まず人間ありきという発想はない。ヒューマニズム以前の問題を宗教は答えようとしている。「意味」があって、宗教によってそれが明かされて、はじめて人間が存在しうるのである。

 したがって、信仰する者にとって、宗教なくして自分の存在はない、宗教によって明かされる「意味」なくして自分の存在はないのである。


 自分の存在の意味の根拠は全面的に自らが信仰する宗教にある。だから、その宗教が他の宗教、宗派によって誤りとされるなどということは、絶対にあってはならない。自らの信仰する宗教とは異なる原理原則に立つ他の宗教、宗派に寛容であるということは、自らが信仰する宗教への批判、非難、否定を一定程度許容することになる。それは自分の存在が根底から批判、非難、否定されることを一定程度認めることと同じことになってしまう。寛容は自己否定ということになってしまうのである。


 以上からすれば、宗教にとって他への寛容というのはありえないことになるのではないか?まさにそのとおり!宗教にとって他への寛容は本来的にありえないのだ。

 そのありえない寛容を導き出してこそ、真の寛容なのであり、真の和解の道なのである。

 宗教の外の立場から、ヒューマニズムの立場に立って他に寛容であれというのは、あまりにも宗教を知らない、安易な考え方であると言わなければならない。宗教を「バカの壁」と片づける向きがあるが、このような安易な考え方もまた、ヒューマニズム信仰という「バカの壁」ということになる。

 宗教の不寛容と正面から向き合うことによって獲得する寛容でなくては、一時の妥協と野合が図られるだけで、永続的和解は得られないのだ。


 永続的和解の展望はあるのか?あるというのが筆者の考えである。