2015年1月3日


 格差社会といっても社会保障制度がなくなるわけではないし、極貧、行倒れ、餓死が多発する社会になるわけではない。トリクルダウンということもある。成長のためには社会の競争性を高める必要があり、そのために発生する格差は社会的コストとして許容されるべきなのではないか、むしろ積極的に受け容れるべきなのではないか。

 こう書けばややケンカ腰だが、新自由主義、市場経済至上主義、リフレ派などと呼ばれている人たちは、おおむねこういう考え方をしている。そのような人たちに囲まれている、あるいはそのような人たちをブレインとして自分の回りに集めた安倍首相の考え方もこういう考えであると思われる。

 このような考え方は、格差社会がもたらす深刻な問題をまったく見逃している。


 正規と非正規の問題は同一労働同一賃金という対応で解決できるものではない。大企業と下請け企業の問題は地位利用の不当契約を禁じることによって解消できるものではない。異性関係の不運によって生じる子育て困難等の問題は少々の手当の給付で解決できるものではない。


 格差社会がもたらす問題は、単に生活水準等の経済格差の問題にとどまらないからだ。格差拡大は社会の根本に深い傷を負わせることになるのだ。

 それは社会科学的観点からはまったく認められない非科学的イデオロギーによって発生する。そのイデオロギーが問題を何百倍にも大きくする。

 そのイデオロギーとは「格差は個人の責めに帰せられるべし」という「個人責任」という考え方である。


 すなわち、「個人責任」という考え方によって、格差をもたらすものは、能力、努力、性格、知識教養等々個人個人の全人格的資質であるとされる。

 勝者に都合のいいイデオロギーであるがゆえに、格差拡大につれて、この「個人責任」という考え方が社会全般にどんどん広められていく。

 その結果、格差社会での勝者には、あたかも自分が全人格的に優れているかのごとく認識してしまう高慢をもたらし、敗者には自分を全面的にダメな人間であるという自己否定感情を植え付けてしまう。敗者となった人々から人間にとって最も大切な「プライド」「自己肯定感」を奪い去ってしまうのである。


 企業団体、地域社会、教育現場、いずれにおいても、「プライド」「自己肯定感」を喪失した構成員が多数となってくると、組織運営が極めて困難化する。このことは社会学的知見を待つまでもなく、組織運営に従事する人々にとって常識であろう。

 日本の高度経済成長実現の理由の一つに、日本人の組織への忠誠心、一体感があったというのはよく知られていることである。それをもたらせたものは組織の末端に至るまでの人々の「プライド」の高さであった。

 格差社会の進行、「個人責任」論の横行は、このような日本社会の力の源泉を喪失させることになる。


 表面的にはきれいごとを言って差別意識がないかのごとく取り繕っているが、「個人責任」イデオロギーの浸透によって、すでに現場では勝者による敗者に対する差別感情がとどめようがなく広がっている。

 発注元の下請けへの高慢、正規の非正規に対する身分的ともいうべき対応、母子家庭への偏見等々枚挙にいとまがない。

 日々、敗者として、弱者として、このような局面にさらされている人々が「プライド」「自己肯定感」を維持し続けることは、言うまでもなくとても困難である。

 かくして、日本社会は、一体感が乏しく、目標を共有できず、構成員の忠誠を絶えず疑っていなければならないという重たい組織からなる社会に変質しつつあるのである。

 日々の出来事からその萌芽を感じとる皆さんも多いことであろう。


 アベノミクスは第3の矢として成長政策を掲げているはずだ。しかし、「個人責任」イデオロギーを背景とした格差社会の進行は、以上のような結果、組織運営の維持コストを大幅に増大させつつある。ボディーブロー的に日本経済の成長力を低下させている。規制緩和、法人税減税などという小手先の成長政策が一挙に吹っ飛んでしまう反成長効果をもつ大問題が進行しているのである。


 以上のことは筆者が指摘するまでもないことであり、日本経済に関心をもつ者の常識である。

 なぜ、安倍首相、また取り巻きのブレインたちにはそれがわからないのであろうか?

 答は簡単である。彼らは目先の表面的経済指標しか見ていなくて、長期的に構造的に国民経済をみる視点がないのである。

 そういう人たちには安易に「国益」という言葉を使ってもらいたくない。


(補遺)

 危機にある人々の「プライド」「自己肯定感」「アイデンティティ」を考えるとき、その究極的解決のためには、やはり人間的的次元を超えた価値の世界、すなわち形而上学的世界に頼らざるをえないのであろうか?

 それが「真実」ではなくても、ヒューマニズムの貫徹のための便宜としてそれを採用せざるをえないのであろうか?

 便宜のための妥協をすることなく、すなわち形而上学的世界に頼ることなく、ヒューマニズムの貫徹を人類の合意として、自らを救うことを人類は決断できないものであろうか?