2014年12月16日

 

 

 

 

 軽妙洒脱のふうをよそおいながら、最晩年にはカトリックの洗礼を受けた(遠藤周作の促すところと仄聞する)、そのことに象徴される人物と思われる、三田文学の安岡章太郎さんの話が忘れられない。

 文章で読んだのか、テレビ出演の時の座談で発せられたのか、残念ながら記憶がない。

 そのようなものであるにもかかわらず、話を忘れ得ぬその理由は、今日において、まさに今日において、示唆するところが極めて大きいがゆえである。

 

 

 

 

 今回の衆院選にとどまらず、庶民は引き続き間違い続けるであろう。だまされ続けるであろう。

 当面の生活を最優先にせざるをえず、そのことに強いストレスを受けている庶民に対して、目先のことを捨てて中長期的に先を考えよというのは、実際には無理な注文である。

 異性獲得競争の中にあるがゆえに身にひしひしと格差を感じさせられる孤独な若者たち、妻子を抱え生活樹立に命をかけているのにその不十分性に追いかけられ続ける寂しき企業戦士たち、戦い終えれば安息の日々を迎えるはずだったのに老老介護を余儀なくされている余命わずかな退役戦士たち、彼らに中長期の観点を注文をすることなどは過酷というものであろう。

 できない注文をすることはしないが、それでも、安岡章太郎さんの話は伝えておきたい。一息つけたと思った時のその一息に危なさがありうるのだ。

 

 

 

 

 満州事変(柳条湖事件)(1931)から日華事変(盧溝橋事件)(1937)までの間、中国との宣戦布告なき戦争は継続していて、戦死は日々発生していた。にもかかわらず、世の中は明るかった、と安岡先生は言うのである。その直前に比べて暮らしやすさがあったと言うのである。国内の生活にそれほど戦争は迫っていなかった、むしろ戦争による景気の良さがあったというのだ。戦前が一様に暗いように思うのは現在の目から見る間違いだということだった。

 戦場が遠くて、戦争が身に迫る程度がある限度を越えなければ、世間というものは、それを話題にしないほど冷酷ではないが、目の前の好景気に惑わされて、それを許容してしまうものなのである。

 集団的自衛権行使の立法化がなされ、その結果可能となった海外派兵により、自衛隊の若者が数百人規模で命を落とすことになっても、世の中というものはそれを許容してしまうかもしれない。そういうことが示唆されている。

 安岡章太郎さんは、穏やかな表情で、攻撃的外見を呈しないまま、世の中のいい加減さを実は鋭く指摘され、警告を発しておられたのである。

 

 

 

 

 自殺は年3万人、ここのところややこれを切る水準、交通事故死、これはほぼ1万人、この程度であれば、社会は建前上は許容しないが、事実上は受け入れてしまう。戦争の犠牲も同様であると推定するのが自然である。現にアメリカは戦争をずっと継続していて、それが社会の常態となっている。

 それゆえ、憲法改正によるのか、解釈改憲によるのか、予想はつきかねるが、可能となった海外派兵は、戦死者数千ぐらいになるまでは、世間はこれを許し、美辞麗句でこれを礼賛し、ずるいことに戦争景気を謳歌するであろう。

 

 

 

 

 それではいけないと世間が気がつくまでの若き自衛隊員の死者はどれだけになるだろうか。その大部分は正規の就職にたまたま恵まれなかった青年たちであろう。その親たちを含めて、かわいそうだ、理不尽だ。

 僕はこの悲劇を起こす主犯はもちろん政権中枢だと思う。しかし、明らかにこの悲劇の共犯は、日々の生活に追われて先を考える余裕のなかった庶民なのだ。