2014年12月12日


 交通機関を利用しての移動にあたり、早くて、安くて、疲れないルートを見出すことに、僕たちは喜びを感じる。近距離でもそう感じるのだから海外旅行でのその喜びにはいっそう大きいものがある。

 節税努力をして成果を上げることに、僕たちは喜びを感じる。所得税のわずかな控除でもそう感じるのだから、大金の動く相続税、贈与税の分野での成功の喜びは大きい。

 ちょっとした仕事を段取りよく、てきぱきと片づけることに、僕たちは喜びを感じる。多人数を動員する大仕事であれば達成の喜びは極めて大きい。


 これらのことは金銭的、物質的成果を伴うものだが、これらの喜びの質をよく考えてみると、金銭的、物質的成果ゆえの喜びとは言い難いものであることが理解される。

 これらの喜びを形而下の世界の喜びとするのには誤りがあり、もっと抽象的な、根源的なところからくる喜びであると考えるべきであると思われる。

 それはおそらく、表面的な知識レベルで獲得されたものではない。心身に融けこんで無意識化した深いところからやってくる。


 その喜びの源が人格化されることはなく、まとまった言葉とされることもないので、宗教と名づけられることはない。

 しかし、この世にある「意味」に即した行動をとったという思いから喜びが生じていると推定されること、その「意味」を形而下ではなく、形而上の世界においていると推定されることからすると、それはかぎりなく宗教に近いものと言わざるをえない。その信仰の対象を「合理性」とする宗教である。


 吟味すればすぐにわかるように、その「合理性」は極めて狭い意味での「合理性」である。その世知辛さ、安っぽさ、品の無さ、根拠の無さ等々、非難すれば尽きるところはない。

 その「合理性」は、もっと広い意味での高次元の「合理性」がありうることを想定していない。

 もしそれがあれば自己が否定されてしまうので、それを強く恐怖し、無視し、忌避している、淋しい、孤立無援の「合理性」である。

 しかし、「イワシの頭も信心から」で、信じる者は救われるのであって、外からその信仰を非難できるものではない。


 ただ、言えるのは、彼らもまた自分たちの信仰を絶対視して他者に押しつけることはできないことを認識し、社会を自分たちだけの信仰告白の場としないで、他の信仰があることに対して謙虚であるべきだ、ということだ。