2014年11月26日
真剣に仏道に取り組んでいるたくさんの人たちがいるので、お気楽な不勉強の野次馬的批判はためらわれるところではある。
が、気がつくと黙ってはいられないという悲しい性分で、恥かしながらの駄文披露ということになる。
「客観的現実の多層と、主観的意識の多層とのあいだに1対1の対応関係が成り立っている……」とは井筒俊彦大先生の言葉(「イスーラーム哲学の原像」)であり、河合俊雄京大こころの未来研究センター教授が井筒先生の言葉の中から、たぶん最重要なメッセージとして、選ばれた言葉である。
仏教ではこの「主観的意識の多層」として末那識、阿頼耶識などと言い、われわれの日常意識・生活意識の深みにそういう意識層があるとされている。フロイトの無意識の発見からユングの集合的無意識といったものもこれに対応するものであろう。
そして、我々の日常意識・生活意識に対応して日常世界・生活世界が展開しているように、末那識、阿頼耶識に対応した、日常世界・生活世界とは全く異なる世界が展開するとされている。それが井筒先生の「客観的現実の多層」と言うことであろう。
分析的にそれが正しいか否か、すなわち「多層」がいくつの層から成っているか、また各層の性質などについては、筆者では判断がつきかねるが、日常意識、生活意識がもたらす日常世界・生活世界とは異なる世界が展開するということについては、それを「客観的現実」と名づけることについてはいささかのためらいはあるが、それは正しいと思う。
その結果、我々が日常意識・生活意識で日々直面している日常世界・生活世界が、日常意識・生活意識ではほぼ絶対的存在として君臨しており、その絶対性によって我々に様々な苦悩をもたらす日常世界・生活世界が、その絶対性を減じて相対化されることになる。そして、その絶対性の呪縛から解放されることによって我々の多くの苦悩が解消される効果がもたらされる。そのことも、精神障害に対する臨床例をはじめとする数多くの実例からも、正しいことと考える。
また、井筒先生は禅の修行を通じて非日常世界・非生活世界を体験していることを明らかにされている。このような体験を宗教的神秘体験とひとくくりにしていいのか、そこのところはまったくわからないが、宗教的神秘体験の実例は世の中に満ち満ちている。
ところで、飲酒、ドラッグ、極度の疲労、臨死体験などによって、諸々の宗教が要求する修行、修練、自己抑制を経ることなしに、宗教的神秘体験に類似する体験が得られるという事実、日常意識・生活意識の喪失によって、その結果、ある意味で消極的に、非日常世界・非生活世界が展開するという事実がある。
まず、第1の問題として、これらの類似体験と宗教的神秘体験とは本質的に異なるものなのであろうか、という問題がある。
類似体験は、臨死体験を除いて、近代社会では社会的に好ましくないものとして考えられているため、卑しめられている類似体験がもたらす非日常世界・非生活世界に日常世界・生活世界を相対化するパワーがないということが現実にある。しかし、それは歴史的、社会的現象であり、本質的に異なるか否かを決定するものではない。
西田哲学における「純粋経験」を宗教的神秘体験とすれば、プラグマティズムの哲学者ジェイムズは「生まれたばかりの赤ん坊、あるいは睡眠、麻酔薬、病気、打撲などによってなかば昏睡状態にある人だけが、文字どおりの意味での純粋体験をもつとみなすことができるであろう」とずばりこの問題に断を下している。
禅では悟りの境地の世界と日常世界・生活世界との往還を意志的に行うことができるということを小耳にはさんだことがある。類似体験と宗教的神秘体験に本質的違いがあるとすれば、それはこのことなのかもしれない。
次に第2の問題である。この第2の問題のほうが大きい問題である。
仏教では悟りの境地に至ることによって一切の苦悩から解放されるということが様々な言葉で語られている。そのことが悟りの境地に至ることの「効果」であるように語られている。
さて、「一切の苦悩」とはどの世界でのことなのであろうか?
明らかに「一切の苦悩」とは日常世界・生活世界でのことである。
ということは、日常世界・生活世界のほうに究極の目標・目的があるということになる。
一方で、悟り、涅槃、成仏等々の言葉をもって究極的に目指すべきは宗教的神秘体験の世界とされている。非日常意識・非生活意識による非日常世界・非生活世界が到達すべき世界とされている。
井筒先生の言葉を使えば「客観的現実の多層」の各層に、仏教は優劣をつけているのであろうか?つけているとすればその根拠は何だろうか?
それとも優劣をつけていないのだろうか?それならば何故、悟り、涅槃、成仏が目指されねばならないのだろうか?その答のあいまいなまま、人は何故、悟り、涅槃、成仏に赴こうとするのであろうか?