2014年11月7日
1985年(昭和60年)生まれの若手社会学者・古市憲寿が「だから日本はズレている」(新潮新書)という本を出している。古市は若者世代の代弁者としてしばしばテレビにも登場し、政府設置の委員会委員にも採用されるに至っている「売れっ子」である。
「だから日本はズレている」の構成はおおむね次のようになっている。
まず、世のおじさんたち(古市によれば「いくつかの幸運が重なり、既得権益に仲間入りすることができ、その恩恵を疑うことなく毎日を過ごしている人のこと」であり、必ずしも「中年男性」のことではない。)の誤った認識を指摘し、おじさんたちが期待するハッピー・ストーリーの成立の不可能性を説く。同書の章名に次のようにある。
「『リーダー』なんていらない」
「『クール・ジャパン』を誰も知らない」
「『ポエム』じゃ国を変えられない」
「『テクノロジー』だけで未来は来ない」
「『ソーシャル』に期待しすぎるな」
「『就活カースト』からは逃れられない」
「『新社会人』の悪口は言うな」
「『ノマド』とはただの脱サラである」
「やっぱり『学歴』は必要だ」
「『若者』に社会は変えられない」
こうして日本はこのままではもはや「絶望の国」だとするのだ。そして絶望の国という状況認識のもとで人々はいかに対応すべきかを提言する。
それは、従来の集団的政治活動によって社会を変えようという道ではなく、「闘うのではなく、むしろ降りる」という道である。
非人間性を宿命的におびる資本主義社会、ひたすら競争原理の産業社会から個人的に又は小集団的に離脱するのである。生活の一部分はそれらの社会に置いてもその他の部分では離脱しておくという部分的離脱の方法もそれに含まれるのかもしれない。「シェアハウス」「ダウンシフターズ(downshifters)(減速生活者)」「コンサマトリー(consummatory)(自己充足的)」といった単語がその象徴として語られる。
そしてこのような道を選ぶ「静かな変革者」こそが社会を変えるとされるのである。
もはや旧来の概念でのハッピー・ストーリーが日本で再現することはないという古市の現状認識は極めて正しい。それをおじさんたちに説得するについて古市は貢献している。
そして、そんな展望のない社会で身をすり減らして他者との競争に明け暮れるような人生は空しい、欲望を自己抑制して社会から離脱するのがいいという古市が提案する道は、気持ちとしてはよく理解できる。事実、すでにそのような選択は各所で見られる。
しかし、それを多数者の選択の道として提示するのは実に甘いと言わざるを得ない。普遍性をもたない提示と言わざるを得ない。
それが少数者にとどまっている限りは、資本主義社会は知らん顔をして放置するであろうが、それが社会の大勢となることを許容するほど資本主義はやさしく、ゆるい社会ではない。
社会からの離脱とは、すなわち社会貢献しないという宣言である。社会の富の生産に参加しないという宣言である。そのような者たちに対して、社会は政治的平等を与え続けることはしない。何らかのかたちで政治参加の権利は制限されることになるであろう。富の再分配、社会保障は縮小され、ついには事実上廃棄されるに至るであろう。フリーライダーに対する資源配分は拒絶されるであろう。本書最終章において「2040年の日本」という近未来予想があり、そこでは最低の衣食住が保障される「ベーシック・インカム」と過酷労働従事者への精神安定剤「改良プロザック」の配布がなされることになっているが、実に甘い想定と言わざるを得ない。
欲望の抑制が本人だけのことであるならば欲望の抑制は可能かもしれない。いや、その抑制は家族形成(結婚、出産)の抑制にまで及ぶだろうか?そして、妻子に欲望の抑制をどれだけ強いることができるだろうか?子供たちの健康・健全な発達・知識の習得をどれだけ断念できるだろうか?家族の生命維持、痛苦からの解放の可能性、すなわち医療を受けることをどれだけ断念できるだろうか?絶対的貧困(すなわち生命維持が危ぶまれるような貧困)に人はどれだけ耐えられるだろうか?そもそも本人の勇気ある決断が格差社会の底辺にその後生き続ける孫子の代まで継承・確保されるだろうか?
気鋭の社会学者古市憲寿はこのような点において極めて楽観的に過ぎる。資本主義の恐ろしさに対する認識が欠如している。敵と見なした者たちに対する資本主義の苛烈さにまったく想像が及んでいない。
彼の現状に対するせっかくの鋭い認識はそれにとどまって、それからの対応については残念ながら、少数・例外にとどまっている限りで有効な、限定的アドバイスにしか過ぎないものになっている。
しかも、社会からの離脱という選択ができる少数者は、往々にして、「いくつかの幸運が重なり、既得権益に仲間入りすることができ、その恩恵を疑うことなく毎日を過ごしている人」であって勤労を要しないという恵まれた人、すなわち古市の言う「おじさん」たちのうちの資産所得者だったりするのである。
古市氏、弱者の味方のごとくして弱者のパワーを減じ、結果的には「おじさん」たちの味方の役割を果たしているのではなかろうか?