2014年10月26日


 前回の概観に続き、今回は佐伯啓思「西田幾多郎」を記述に即して見ていこう。


 第5章「特攻精神と自死について」の中で著者は、特攻・自死を決断した若い人たちの精神を賞揚したあと、それを日本文化、日本精神に関わるものとし(P110)、「『無』としかいいようのない境地において最期の行為を遂行するというのが、日本の実存の伝統的な形だったのです。」「この『あきらめと覚悟』こそは武士の思想の根幹だったのです。」(P111)というまったく無根拠な我田引水的な主張をする。自死の道を選んだのだから「滅私」であり、「無」の境地であり、「あきらめと覚悟」であったとの乱暴な推論である。

 そして「西田幾多郎は特に特攻について書いているわけでもなく、西田哲学が特攻と関連があるわけでもありません。」としながらも、「どこか深いところで、特攻などと通じ合う何かがあるような気がするのです。」(P113)と西田を持ち出してくる。

 「無」というものを基本前提とした状況、それへの「私」の関わり方は、合理的判断によるのではなく、「行為的直観」であるとするのが西田であるとし(P115~116)、合理的判断や損得勘定や功利主義では決断できない若き兵士たちが置かれた状況、それは「私」という要素を介入させようがない切迫した状況であり、ゆえに「無」といえる状況であり、そのような状況において決断を迫られた若き兵士の特攻志願はこの「行為的直観」にあたるというのである。

 それは若き兵士たちの自死の決断をエイヤッの瞬間の気合いであったかのごとく説明するものである。「決定できないことを決断しなければならない、という状況があります。先の特攻を志願した宮部(注:「永遠のゼロ」の主人公)もそうだったでしょう。」(P116)「宮部は、生きて妻子のもとへ帰るのか、死んだ仲間のために特攻するのか、合理的判断などできません。」(P117)として「むしろ、すべてを消し去った『無』において、行為そのものの運動に任せるほかないのです。」(P116)とするのは、その決断にあたっての彼らの苦悩、迷いを無視するものであって、彼らを明らかに侮辱している。

 そもそも西田の「行為的直観」が「直観的行為」のことと誤って理解されている。「行為的直観」とは、思弁によって得られる認識とは別の、行為によってはじめて得られる認識のことをいうのであって、あくまでそれは認識のことであって、行為そのものを指しているのではない。


 そして、「現実はまさに矛盾のかたまりで……現実は調停不可能な矛盾に満ちています。」「この歴史的世界(注:現実世界と同義)は『絶対矛盾的自己同一』というほかありません。」(P117)として「合理的判断も損得勘定も行き詰ってしまうからこそ、我々は行為的直観的に行動するほかないのです。」(P118)というのは、それを「無の自覚」などと飾ってみても要するに馬鹿になれ、わからない場合は行動せよ、と言っているだけである。状況に追随して短絡的に自己犠牲的に行動しろ、自己犠牲的であればそれは「無の自覚」と判断され正当化される、というだけのメッセージである。

 「歴史的世界」について「絶対矛盾的自己同一」という西田哲学のキーワードをもってきているが、単に現実世界が矛盾に満ちているということを言っているにすぎず、西田哲学のキーワードは不要である。

 そして「行為直観的な行動」(実は直観的行動)における「無私」「自己滅却」は果たしてそのとおりに「無私」「自己滅却」であるのか、単なる判断停止なのではないか、という大きな問題がはらまれているのが通常であって、勝手な自己正当化的思い込みほど御しがたくはた迷惑な行動はないのである。この文章ではそのはた迷惑な行動が助長されるばかりである。


 さらに「第8章『日本文化』とは何か」においては、次のような不可解がある。

 まず西田を思い起こさせながら次のように言う。

「 日本の歴史観の基調になるのは、生々流転の観念であり、『次々となりゆく勢い』といったものです。特別な意味も理由もなく生成し転変してゆくのです。しかしそのことを、われわれはどこか運命と受け取る。歴史は『無意味』だと知りつつ、その無意味さをこそ意味として受け取るのです。宿命の内部には壮大な空洞が広がっている。そこには『無』しかありません。しかし、歴史的現実のなかに投ぜられたわれわれは、歴史を宿命として受け取るほかないのです。こういう感覚が日本文化にはあった。」(P174)

 それは首肯できる。しかし、この認識がなぜ次のような文章につながるのか、これはさっぱりわからない。

 すなわち、

「 しかしまた、そのことを知れば、われわれは我や私を捨てて、歴史的現実のなかでやるべき役割を果たす、ということにもなる。宿命はささやかな使命にもなるのです。特に、戦前のような国家間の軋轢が危機をもたらしつつある状況では、帝国主義という時代の宿命のなかで日本が果たすべき歴史的宿命が問われる、ということにもなりました。それを諸個人も引き受ける以外にないのです。」

 この文章も単独にそれがあったのなら、それはそれとして読み取ることはできる。しかし、前半の文章にある「無意味」という認識からなぜ「使命」が生じうるのだろうか。「使命」は「意味」をもって説明されなければ「諸個人も引き受ける」ことはできないであろう。

 前半の「認識」を後半の「使命」につなげるには、大きな、そして大事な中間項を必要とする。西田的認識から太平洋戦争肯定を導こうとする曖昧なこの文章は、その中間項を欠いており、真面目に人を説得しようとする知的誠実性に欠けている。そこに垣間見えるのは、勇ましい外見と正反対の、か弱い精神である。


 本書の以上のような記述は、西田哲学という哲学上の偉大なる到達を特攻精神や日本が果たすべき歴史的宿命などという垢にまみれさせる結果になっている。このような西田哲学の取扱いは思想史上の偉大なる到達の普及をかえって妨げることになる。

 他の部分においては西田哲学のきわめてわかりやすい解説になっているだけに惜しまれてならない。