2014年10月2日


 先日ある法曹界の権威者の憲法9条解釈変更に関する講演を聞いた。その方の立場は集団的自衛権の行使は現行憲法上許容できず、集団的自衛権の行使を必要とするならば憲法改正をする必要がある、というものであった。本年7月1日の閣議決定までの従来の政府の憲法解釈に沿った考え方と言っていいであろう。

 その説明において、他の報道、解説でも同様であるが、憲法9条2項の「交戦権」についての言及がまったくなかったので、講演終了後、筆者はその方に「交戦権」についての考え方を質問してみた。9条2項の「交戦権の否認」は我が国の武力行使のあり方に根本的条件を課していると筆者が考えていることはこれまで再三述べているところである。その考えからの質問である。


 その方の答は、「交戦権」という言葉は死語化している、「交戦権」を根拠として戦争をした国は長期にわたって存在していない、といったものだった。憲法解釈の上で9条2項の「交戦権否認」の意味を重要視はしないという答であったと言っていいであろう。

 それでは我が国の武力行使についての条件は憲法のどこから出てくるのか、という大問題が発生してしまう。新しい武力行使3要件の問題もそこにあるが、それ以前の武力行使3要件も同じ問題をもつことになってしまう。旧要件と新要件が五十歩百歩のこととなってしまう。それは憲法解釈の変更の余地を大きく認めることにもつながる大問題である。

 ここであらためて「交戦権」とは何かということについて考察を加え、9条2項の「交戦権の否認」がいかなる規定性をもっているかを考え直してみたい。


 「交戦権」の解釈は大きくは2つに分かれる。

 1つは「国家が戦争を行う権利」とするものである。9条1項の「国権の発動たる戦争」というその発動される国権が「交戦権」であるという解釈である。

 もう1つは「交戦国が国際法上有する種々の権利の総称」とするものである。戦争での相手国兵力の殺傷、破壊、相手国領土の占領、適性船舶の拿捕等々を実施する権利を一括した概念とするものである。

 筆者は漠然と前者だと考えてきたが、政府解釈は後者である。

 前者と考えても後者と考えても、交戦権が否認されれば事実上「戦争」を行うことはできないはずである。前者は権利がないゆえに、後者は事実上「戦争」を遂行できないがゆえにである。

 


 しかしながら、政府は「交戦権」とは別に「自衛権」があるという考え方に立っている。交戦権が否認されていても「自衛権」のもとで例に挙げた相手国兵力の殺傷、破壊等の行為が可能という考え方である。

 そうなると「自衛権」の行使であることによる当然の制約はかかってくるが、それ以上の制約はかかってこない。敵基地先制攻撃権は否定されない。相手国の反撃抑制のために相手国領土の占領もありうるであろう。事実上「自衛権」といっても歯止めがなくなる。「自衛」の名のもとに「侵略」「権益確保」の戦争が行われたという過去への反省がないがしろにされる。


 ところで政府は国会答弁(第84国会真田秀夫内閣法制局長官答弁)において、「自衛行動権」という概念を打ち出し、それを「自衛のための交戦権」「限界ある交戦権」「自衛権からくる制約ある交戦権」という説明をしている。

 この考え方は「自衛権」を行使するために「自衛行動権」というものがあり、「自衛行動権」は「交戦権」のうちの特殊概念であるとするものである。

 こうなると憲法9条2項の「交戦権否認」の結果、交戦権の特殊概念である「自衛行動権」もまた否認されることになる。すなわち、「自衛権」は否認されなくともその行使のための「行動権」が否認されることによって事実上「自衛権」は否定されてしまうことになるのである。


 「交戦権」とは別物の「自衛権」があり、その別物の「自衛権」に基づき許容される「行動権」があるとするのか?それでは武力行使の制約がなさすぎる。「自衛権」に基づく「行動権」もまた「交戦権」の概念に包摂されるものであり、9条2項により否認されるものとするのか?それでは外国からの武力攻撃に無抵抗でいるしかない。

 この問題から脱出する知恵としてひねり出されたのが「自衛権」「自衛行動権」「交戦権」といった権利の行使ではない「自衛の措置」、「外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置」という考え方であった。旧武力行使3要件はこの考え方から導き出されている。このことによって憲法に基づき武力行使に一定の歯止めをかけつつ外国からの攻撃に対処することが可能となったのであった。戦後日本のかたちを決めた貴重な知恵であった。


 92項に書かれている「交戦権の否認」は、法曹界の権威者の消極的評価とは異なり、厳然として重いのであり、その規定性は十全に尊重されなければならないと考える。