2014年9月19日
社会主義なき後、資本主義が戦う相手はイスラムとなる、という指摘はかねてより語られてきたことであった。しかし、その認識は誤りである、あるいはその認識は不十分である、と申し上げたい。
条件なしで資本主義が戦う相手としてイスラムということはできない。
イスラムに加えて付すべき条件は2つある。
1つは「原理主義」という条件である。イスラムに限らず、キリスト教でも、仏教でも、その原理主義的立場は資本主義とは相容れない。資本主義の成立には人間の物的欲望無限という条件があり、一方いずれの宗教的原理主義も物的世界よりも高次元の世界があることを説くことによって人間を欲望から解放することをめざすものであるからである。
そして、イスラム社会もまた他の社会と同様に、原理主義的でない社会のほうが普通であるからである。
イスラム社会での女性差別、敵に対する残酷さといったものはイスラムの本質ではない。それらは歴史的条件のもとで生まれた相対的なものでファンダメンタルなものではないと考えておくのが正しいであろう。
もう1つの条件は「政教不分離」という条件である。
西欧諸国は厳しい対立の時代を経てキリスト教の権威と俗世間の権威を分離する道をたどってきた。イスラム圏でも、トルコはその独立にあたりはっきりと「政教分離」を打ち出し、最近やや異なった動きが出てきているが、その道を今日まで続けてきた。日本の場合は、「政教分離」の淵源がどこにあるのかやや不明であるが、明確に「政教分離」の国である。それに対してイスラム社会ではそのことが極めてあいまいである。あいまいなため弱者の経済的救済といった俗世間の政治課題に宗教が介入する。「アラブの春」と言われた動きが単純に民主化と評価できず頓挫しつつあるのはこの結果である。
そして「原理主義」と「政教不分離」の2つが重なったとき、資本主義とはまったく相容れない世界が存在することとなり、資本主義との共存は著しく困難になる。
現実にその傾向は存在するが、筆者の判断では2つの条件のうち、前者、すなわち「原理主義」の力は弱い。現実に生活を抱えている大衆が支持しないからである。
後者の克服はむずかしい。かつてシュンペーターは社会主義と資本主義と比較し、その経済的達成ではなく、道徳的正当性の社会への配分という意味で社会主義に軍配を上げるという判断をしたことがある。欲望充足だけでは人びとは生きられないということである。その点を補うものとして「政教不分離」はイスラム社会において克服できないかもしれない。
しかし、2つが重なることがなければイスラム世界との共存は十分に可能である。
当面「イスラム国」問題を処理しなければならない。ただこの対立をもってイスラム世界と資本主義は本質的に共存不可能という誤解をしないように注意しなければならない。「イスラム国」は、例えて言えば日本の戦国時代の一大勢力ではあるが、織田、豊臣、徳川たりえない傍流の戦国大名である。反本流からの支持・支援はあるが、あくまでも傍流以上にはなりえないのである。