2014年9月5日


 JKビジネスというのが隆盛らしい。JKとは女子高生である。摘発を免れるためにいろいろと粉飾が施されているが、要は女子高生による素人売春である。古くは夕暮族、また援助交際といったものと同一線上にある。

 ただ、JKビジネスの場合、それまでのものにもなかったわけではないが、新しい心理的要素が強まっているということが感じられる。

 それは買春側に少女性への希求があるのは当然として、売春側にも少女性へのこだわりがあるということである。売り物とされている少女性の価値を彼女たちは買春側と共有し、彼女たちもまた少女性を消費している存在なのだ。

 彼女たちは少女性というものを普遍的価値と信じており、それを維持することを究極的目標化している。それ以外の価値を見出し得ていない。少女性を失ったら自死するという発言さえ見られ、実際に発生しているらしい。少女性を維持するための服、化粧品、小物類を購入する小遣い稼ぎとして彼女たちは売春をしているのだ。


 彼女たちは少女性という価値を自分で選びとったものと信じている。しかし、それは社会的に洗脳されたものであり、社会的に強いられているものである。少女性は買春者のみならず、親たち、教育者たちからも賛美されている。彼女たちにそれに対する疑問、反論の生ずる余地は極めて乏しいというほかはない。彼女たちは少女性という価値しか見えず、大きく視界を広げることを妨げる斜眼帯を付けられているのである。自分自身を見つめる目を彼女たちは悲劇的に限定されてしまっている。彼女たちはそういう意味での社会の被害者なのだ。性を売り物にすることだけを問題としてとられる対策は、したがって、かなり虚しいものである。


 なお、今JKビジネスが社会問題とされているのは、現在の道徳の観点からそれに反することがいちじるしいからである。普遍的問題であるかどうかを断定することはできない。

 洗脳の結果ではなく、真に主体性をもって選択された行動であるならば、北一輝の言葉を借りれば「社会はその進化に応じて正義を進化せし」めた結果として、JKビジネスが何らの問題ではなくなるとの可能性は考えておかなければならない。女装、性転換、同性愛の市民権獲得への社会的抵抗は、特に日本の場合、ほとんど皆無であったという事実がこのことを示唆する。