2014年8月27日
1941年12月8日の日米開戦に至るまでに大日本帝国がたどった道は、避けられない道であった、強いられた道であった、迫られた道であった、やむを得ない道であった。こういう認識が大日本帝国の歩んだ道の肯定、東京裁判への反発、A級戦犯靖国神社合祀の容認といった考え方を形成する感情的背景の基礎にある。この認識は果たして正しいのか?
結論を言ってしまえば、はっきり間違っている。大日本帝国にとって採るべき他の選択肢は明確に存在した。その選択肢とはいかなるものであったのか?
それはいささか皮肉なことになる。大日本帝国の戦争遂行において掲げられたスローガン、「大東亜共栄圏」「八紘一宇」「五族協和」という精神により忠実な道、それが大日本帝国において採られるべき道であった。
残念ながら、これらのスローガンは、もちろんこのスローガンを信じて粉骨砕身の働きをした人々もいたが、現実にはスローガンであるにとどまり、「共栄」「協和」「一宇」というその精神を貫徹する政策は採られなかった。その精神に反する動きをコントロールすることはなされなかった。
孫文も安重根も一時は大日本帝国を信じ、大日本帝国の力を借りながら欧米列強に対抗し、自国の独立を図ろうと考えた。アジアにそういう人々は数多く存在した。しかし結局、大日本帝国に失望し、反日たらざるを得なくなったのであった。太平洋戦争時、それぞれの地域に欧米諸国からの独立を図る親日勢力が存在した。しかし、それらの親日勢力は現地でほとんど信頼されることはなく、現実的力とはなり得なかった。
その理由はアジア諸国に対する実際の大日本帝国の態度にあった。大日本帝国の進出先で展開されたのは、官民こぞっての民族差別的、支配者的、搾取的、傲慢で非人道的な他民族支配であった。このため、スローガンの美しさにかかわらず大日本帝国は欧米列強の侵略に対抗するうえでの味方とは見なされなかった。また欧米帝国主義は第1次世界大戦以降、植民地直接統治の負担過重から民族独立を認めつつ実質的に経済的支配を行うという新植民地主義に転換しつつあった。大日本帝国はその動向を感知し得ず、旧来の植民地主義よりももっと過酷な統治をした。このため進出先からは欧米諸国よりもさらに敵であると見なされたのであった。
欧米の植民地にならず独立を維持し、欧米に対抗できるだけの国力を有する国になるというというのが明治維新以来の大日本帝国の課題であった。そのために共同戦線を組むべき相手が中国、朝鮮、インドその他のアジア諸国であった。そのアジア諸国を大日本帝国は侵略の対象とし、みんな敵に回してしまった。歴史に「たら」「れば」は禁物であるが、この道を歩まず、反欧米・アジア民族解放共同戦線を組むことができていれば日本があの惨めな敗戦を迎えることはなかったであろう。
以上についての認識なく戦前の日本を丸ごと肯定しようという考え方は、歴史的事実を見ることに不十分すぎるし、あまりにも歴史的想像力に欠けていると言わざるを得ない。