2014年8月25日
カジノ解禁主張の本質は次の2点である。
その1は個人の経済的幸福に対する「公益」の優先である。「公益」のためには個人の経済的破綻は厭わないという姿勢である。この場合のカッコ付き公益は、真の公益ではないという強い意味が込められている。公益のふりをした「公益」である。
その2は愚民化である。大衆ひとりひとりの人格崩壊を意に介さない姿勢である。
現在、ギャンブルによる社会からの脱落者数は数十万、数百万というレベルである。配偶者、子供の犠牲を含めればその数は数倍となる。指摘するまでもなく、これが現在の日本の犯罪の温床となっている。カジノ解禁があれば、その数はさらに数倍という規模に達するであろう。
ギャンブルにはそういう「害」が厳然として存在する。
一方、ギャンブルにはメリットもある。アミューズメントの提供と経済効果である。これがギャンブルのもたらす「公益」である。(経済効果は短期的にあるにすぎず、長期的にはマイナスであることは後述。)
このような実態においてギャンブルを是とする者は、商売人ならいざ知らず、、政治家としては失格である。メリットとデメリットを比較衡量する以前に必要な常識・倫理に致命的に欠けているからである。
ギャンブルとは「貢献なき利得」である。それへの依存は人格を破壊する。
人間とは善悪、勤怠、賢愚その他の面において潜在的可能性の存在である。その潜在的可能性をどちらかに顕在化せしめるものは、その人間が受ける広義の教育、すなわち社会から受ける情報知識である。
ギャンブルは、「貢献なき利得」というものがこの社会にあるという知識情報を人々に与える。「貢献なき利得」とは、簡単に言えば働かないでもいいということである。それは、人々の悪性、劣性、卑小性を助長し、人々の善性、優秀性、真摯性を毀損する。
このような愚民化は社会の活力、成長力を長期的に必ず減少させる。長期的に社会の経済力を間違いなく低下させる。
第3の矢とか、成長政策とかの必要性を叫びながらカジノ解禁を主張する者は、政治家として失格である。社会を劣等化させてもまったく平気な者だからである。大衆を愛する心がなく、大衆の人格破壊に無頓着な者だからである。経済政策を語りながら経済を知らない者だからである。
報道では舛添都知事はカジノ解禁、東京への誘致に消極だという。舛添知事が政治家として合格かどうかは知らないが、少なくとも有資格者らしいことはこれで判明した。抽象的な目的のために都民を手段として犠牲にはしないということがその姿勢に示されている。都民として喜ぶべきことだ。