2014年8月22日




 確か1980年代半ば、上野千鶴子氏は現代の家族の変質に関する論稿で「家族共遊体」という概念を示されていた。

 「家族」とは何か、何についての共同体なのか。「生活共同体」「血族維持共同体」「財産相続共同体」などといろいろ考えられるが、現代家族の本質を「共遊体」という概念でとらえられるのではないか、というのが上野氏の「突っ込み」であった。

 単に家族にはそういう側面があるというのではそんな概念設定にたいした意味はない。その概念が示唆する理念が他の概念が示唆する理念に優先されるという現象があってこそ、その概念設定が鋭い社会分析のメスとなりうる。

 すなわち、「遊ぶ」ことが「生活維持」や「生殖」や「資産拡大」に優先する価値とみなされ、その価値序列に基づいて構成員が行動する。それが「家族共遊体」である。

 食事を切りつめて貯めたお金で旅行をする、遊ぶ自由が制約されるからこどもは作らないといった行動基準、楽しくて優しい異性が好ましいといったパートナー選考基準(こうなれば論理的にパートナーが異性である必要はなくなる)といった昨今の傾向を見ると、「家族共遊体」という概念の現実性が確かに感じられる。




 さて、今回の論点は以上にはない。今回の論点は、それでは国家とは何か、国家は何についての共同体なのか、ということである。

 「(物質的な意味での)利益共同体」「文化共同体」「民族維持共同体」「家族共同体保全共同体」「景観共同体」等々いろいろ考えられる。このことを確定しておかないと、安易に「国益」などと言うことはできない。「家族」の本質が「共遊体」であれば、「家族益」は所得よりも自由時間であり、名誉肩書よりも遊び仲間の数である。これと同様に「国益」の物差しも絶対不変のものではなく、様々なものが考えられる。




 ここで上野氏が家族について提起した概念「共遊体」が「国家」についても適用できるのではないかという考えが浮かんでくる。

 財政危機にもかかわらず間接経費まで含めれば兆の単位となる東京オリンピック招致、一日たりとも途切れることなく開催されるスポーツ競技、日本中の夏祭り、花火、盆踊り、24時間いずれかのチャンネルで提供されているエンターテイメント番組、最新IT技術の娯楽の世界への投入等々の現実がある。

 かつて娯楽とは、労働によって失われた精気を取り戻すためのもの、労働力の再生を図るもの、といった「手段」として位置づけられていたものであった。しかし、以上のような事態によって、娯楽、エンターテイメント、アミューズメントといったものが今や「手段」ではなく、「目的」となっており、その「目的」のために人々は生きていて、「目的」を実現可能とするために国家は存在していると考えられるように思える。

 そうであるからこそ、政治は国民を遊ばせるためにその努力を傾注することになる、公的資源を投入することになる。経済再建、災害復旧、社会福祉は「遊び」の阻害要因除去の「手段」として追求される。「手段」と「目的」が整合しない場合には、もちろん「目的」が優先されるのであって「手段」は「目的」のために犠牲にされることになる。国家の最優先の課題は「共遊体」であることによって生じてくる課題となるのである。こうなると東京オリンピックが経済的に許容されるかどうかなどという議論の重要性はいちじるしく低下してしまう。




 ところで、国家の本質が「共遊体」であるという事態には大きな問題がある。それは防衛、安全保障の問題である。

 国民を遊ばせる国家、そういう国家の安全保障のため誰かが血を流さなければならない、遊びのための犠牲、遊びのための軍事行動、遊びのための殺戮という関係が許容され、肯定されなければならなくなる。

 このような倫理的アンバランスを社会的に維持するのはほとんど無理だろう。

 かくて政府は政権維持のため「共遊体」としての政策を展開しつつ、国家の本質が「共遊体」であることを隠蔽する。そのために建前上、別の理念を掲げる。

 「共遊体」が国家の本質であるとは、すなわち国民が「遊び」の享受の程度を評価して投票行動をするということである。遊ばせてくれいない政府は国民に支持されない。政府が「共遊体」であることを隠蔽するために建前上で掲げる理念が本気のものではないことを国民は百も承知であり、そんなことを問題としないばかりか、政府と一緒になって本気ではない理念を本気の理念として信じているかのように自己韜晦までする。「本当は遊びたい正義漢」「正義漢ぶった遊び人」という国民の姿である。

 遊べればいいという本音とそれを隠蔽するための建前上の理念との同居、こういう状況は「うしろめたさ」という気分を生じさせる。かくて「共遊体」たる現代国家における主調的な気分は「いつもなんだかうしろめたい」というものとなる。