2014年8月14日


 勝敗、順位のあるスポーツの場合、その勝敗、順位のために思考を集中しなければならない。他のことを考えるようでは失格である。
 しかし、スポーツには体を鍛えるとか、コミュニケーションの一手段としてとか、勝敗、順位を問題にしないスポーツもある。ジョギング、水泳、筋トレなどがその例である。
 そのようなスポーツの場合、体を動かしながらどのような思考をするのか?
 勿論、そのようなスポーツにおいても技術の向上というのはあるので、技術の向上を目指した思考は行われる。もっと背筋を伸ばしてとか、足を上げてとか、腕は平行にとか………
 しかし、これらのスポーツの場合、単純な繰り返しが不可避であり、スポーツそのものとは関係のないことを考えることにならざるをえない。それを「飽きる」として勝敗、順位、ゲーム性のないスポーツを好まない向きもある。


 さて、筆者の場合、最近始めたジョギングにおいては、般若心経を頭の中で唱えながら走る。般若心経は音として暗記しているのではなく、意味のつながりで暗記している。ゆえに、愛唱歌を歌うように言葉が湧き出てくるのではなく、次の意味の展開を考えながら唱える必要がある。
 そして、気がついたのだが、水泳の場合には、般若心経を頭の中で唱えながら泳ぐということはできないのだ。意味の展開を思考することができないのだ。
 水泳の場合は、今何メートル、あと何メートルとか、いっしょに泳いでいる人とのスピード比較とか、ほとんどが水泳そのもののことに限られている。水泳以外のことでも、このあと何をするとか、何を食べるとか、単純なことしか考えられず、理屈を考えることはできない。


 このことは筆者独自の現象なのだろうか?だれにでも一般的に起きる現象なのだろうか?人間が基本は陸上動物であり、水中にいることは不安定状態であることと関係があるのだろうか?生命的危機における人間の思考能力の程度という問題に関係があるのだろうか?現代の日本人が理屈、論理、演繹というのを好まず、スピリチュアルな世界に傾くのは現代の日本人のおかれている生物的不安定状態の反映なのだろうか?
 読者の中に若き脳科学者がおられれば教えを乞いたいところである。