2014年8月1日
いずれの国でも資本主義成立期の都市部にはスラムが形成される。資本主義が始まった国イギリスにおいてもスラムがあったし、現代ではリオデジャネイロのファベーラ、マニラのスモーキーマウンテンが有名である。例外はなく歴史の法則といえる。
それでは日本の場合は何処か、と考えると、山谷のドヤ街、西成のあいりん地区があげられそうだが、それはちがう。貧困者居住地区ではあるが、両地区ともに単身男性日雇い肉体労働者の街であって、貧困家族によって形成されるスラムとは性格を異にする。
資本主義成立期における農村共同体の解体、自給自足的経済の崩壊、都市消費社会の需要に応じた卑賤雑多な産業の簇生といったことによって農村から都市への家族ぐるみの人口移動が発生する。その結果形成され、自己増殖するのがスラムなのである。
現在、日本ではそのようなスラムは見られない。それでは日本では歴史法則の例外でスラムが形成されなかったのかといえば、決してそんなことはない。スラムは形成されていたのだが、東京の場合、1923(大正12)年の関東大震災によって崩壊、消滅してしまったのである。
特に3か所のスラムが有名であった。現在の上野駅東側にあたる下谷万年町、浜松町駅西側にあたる芝新網町、信濃町駅北側にあたる四谷鮫河橋がそれである。そこがいかなる貧民窟であったのか、その惨憺たる有様は明治26年刊行の突撃潜入レポート・松原岩五郎「最暗黒の東京」(岩波文庫にあり)に詳しい。
これら3か所に現在まったくその面影はない。住民を含めその街を行き交う人のすべてが、かつてそこが陰惨劣悪な環境で、下層民が悲惨な極貧生活を営んでいた場所であることを知らないであろう。
いったん消滅したスラムのその後の復活がなかったという事実の原因が、右肩上がりの日本経済の力だったのか、都市政策の成果といえるのか、戦時体制への移行による強権政治の結果なのか、申し訳ないが筆者は結論を下す知識をもっていない。また、同じ歴史法則のもとにあった大阪の事情について筆者は知らない。古き良き時代というノスタルジーが時代の一面だけを見て、農村における悲惨と以上のような都市における悲惨の存在を無視して語られることへの警戒を喚起するにとどまる。
日露戦争後のポーツマス条約に不満の大衆が起こした日比谷焼打ち事件(1905(明治38)年)で焼打ち破壊された派出所・交番の数は258で、東京市全体の8割だったという記述に接した。このような事件の背景に当時の広範な貧困層の存在があったことに思い及ばざるを得なかった。明治政府の危機感は相当なものであったろう。それが大逆事件(1910(明治43)年)へとつながる。