2014年7月20日


 私は日本国民である。国籍がそうだという意味でなく、ものの考え方とか生活の仕方とか、そういった自分のアイデンティティを構成しているものの中核に日本国民であるということがあるという意味である。境界域に多数の人々がいることを忘れてはならないが、私に限らず多くの日本国民は、そういう意味で自分は日本国民であると思っている。立場は社会的に、政治的に、文化的に、あるいは世代的に様々であり、愛国的であったり、反日であったり、嫌日であったり、どうでもよかったりするが、日本国民でないとは思っていない。

 それは当たり前のようであるが、それほど当たり前のことではない。江戸時代に日本列島にいた人々がそのように仕向けられて、明治時代に新たに日本国民として成型されたのである。その後の変化はあったにせよ、基本は明治における成型であったと言えるだろう。

 明治時代に新たに成型されたということは、本来的な日本国民というものがそれ以前にあったのではないということである。大河ドラマなどを見ていると同じ日本人というものが連綿と続いているように思わされるが、それは国民的錯誤というべきものである。新たに成型されたものである日本国民には意図的に成型された部分もあれば意図せざる結果として成型された部分もある。ただ、その成型は、外国との関係から余儀なくされたものであったこと、文章をその手段として行われたものであったことを大きな原因として、明治の官民の知的エリート層の主導によって行われた。

 今日の我々はその結果としてある。したがって今日の我々が一体何であって何でないのかは、明治の知的エリート層が日本国民の成型をどのように導いたかということを知ることによって、よく理解することができる。


 松浦寿輝(ひさき)著「明治の表象空間」(新潮社)はこのような課題に正面から答える大著である。「表象空間」という言葉にはなじみがないが、「言葉の世界」という理解でいいと思う。文学は当然のこととして法令、教育勅語、サイエンス、辞書その他広範なジャンルの文章が本書で取り扱われている。その全体の組み立てがしっかりしており、次から次へ興味深くドラマティックに議論は展開され、いささかの滞りも感じられない。学校で学んだ明治の歴史では平板に登場するだけの著名人たちが、本書においては、日本国民の成型にあたっていかなる役割を果たしていたのか、果たせなかったのか、著名人たち相互の関連の中でよく理解できる。

 自分たちはいったい何者であるかということに興味のある人間には必読の書である。国民共通の知的財産として高校、大学で教科書として採用されるべきではないかとまで筆者は考えている。当たり前と自分が考えていることがどの程度当たり前なのか、当たり前でないのか、検討課題なのか、すでに検討済みのことなのか、多くのヒントを本書から得ることができるだろう。これから続々と出版物に与えられる様々な賞を本書が受賞することは間違いないと推測される。


 惜しむらくは、やむをえないことながら、本書が大部であることと高価であることである。A5判・本文700ページ、5400円なのだ。筆者は運に恵まれて図書館で借りることができたが、待機者が続いていて借出し期間を延長することはできなかった。大枚をはたく価値は十分にある。いかなる方法にせよ皆さんが本書一読の機会を得られることを心から祈念する次第である。