2014年7月8日
安重根(アン・ジュングン・1879.7.16~1910.3.26・以下、適宜「アン」とする。)は1909年10月26日ハルピン駅頭で伊藤博文(当時枢密院議長、1905~1909韓国統監、言うまでもなく明治の元勲待遇で初代総理大臣)をピストルで暗殺した犯人である。
現在、中国と韓国が協力して安重根の像をハルピンに建設するというようなニュースがあり、官房長官が不快の念を表明するというようなことがあって、日本と中国、韓国との間の歴史認識をめぐるギクシャクの象徴の一つとなっている。(もう一つは言うまでもなく慰安婦問題)。
学校では暗殺犯が安重根という韓国人の青年であったことぐらいしか習わなかったので、中野泰雄著「安重根~日韓関係の原像」という本を読んでみた。(中野泰雄は戦前の大物右翼政治家中野正剛の子息。)
安重根について驚かされるのは、暗殺から処刑までわずか5か月しかなく、彼と接することができた人間は極めて限られており、かつそのほとんどが日本人(面会を許された少数の韓国人もいた)であるにもかかわらず、彼らがアンに親愛の情をもち、また感服するに至っていることである。
例えば、取り調べに当たった溝淵検察官。丁寧な尋問であるにとどまらず、取り調べ当初、「いま陳述を聞けば、東洋の義士というべきであろう。」と語り、アンに「義士が死刑の法を受けることは決してあるまい。心配しないでよい。」と述べたという。アンに鶏肉や煙草の差し入れもしている。
同じく取り調べに当たった韓国語が堪能な境警視。アンの人柄からその職業を教育家ととらえたという。(実際にアンは学校を設立し、教育活動を行っていた。)アンは境を、毎日会って話し合い、もとからの知り合いのようにつきあうことができたと評している。
アンは旅順監獄に収容されていたのであるが、栗原典獄(監獄長)も中村警守係長もアンを優遇し、1週間に1度の入浴、3度の食事での上等の白米の提供、綿入り布団4枚の支給、毎日午前と午後に監房から出て上等の紙煙草の喫煙等々明らかに一般の囚人とは異なる処遇を行っている。また、栗原典獄は日本に帰国後、「安重根明神」を家に祀るまでに至っている。
公判における水野弁護人は、日本の尊皇攘夷運動、明治期の日本人の要人襲撃等とアンの行為を並べ、伊藤博文もかつてはアンと変わらぬ過激な活動をしていた等として軽い刑とするように求めている。
死刑判決後アンに面会した平石高等法院長(国事犯等重大刑事事件を扱う特別裁判所の長)はアンに共感を示し、アンの政治的意見を政府に上申するとし、アンが著述完成のため死刑執行の延期を訴えたところ特別に許可するから心配するなと答えた。(実現はしなかった。)
アンの護送から処刑まで看守として日夜アンと接していた千葉憲兵上等兵は、死刑執行当日、アンから一書「為国献身軍人本分」を贈られ、帰郷後もアンの遺徳をしのび、人々にアンの人柄を伝え、千葉の妻は夫の死後、仏壇にアンの写真を夫の位牌と並べて礼拝を続けたという。
このような人々に囲まれていたアンは、死刑執行までの5か月間に多くの書を残し、また自分史である「安応七歴史(「応七」はアンの字〈あざな〉)」を書き、未完に終わったが政治思想として「東洋平和論」を書き始めたのであった。
さて、安重根が以上のような厚遇を受け、言わばその敵にあたる日本人と親しい関係を形成することができたのはなぜであろうか?
次のようなことが考えられる。
1 アンが単なる反日テロリストではなく、日本の果たすべき役割をも含めた東洋平和の構想をもつ理想主義者であり、その東洋平和構想は多くの日本人も共有するものであったこと。
2 アンは、国家民族のために命を惜しまず戦わなければならないという義士の精神の持ち主で、西欧列強との対抗を強く意識して生きていた明治期日本人とまったく同じ精神の持ち主であったこと。
3 アンはキリスト教信者であったが、それゆえの高潔性は日本人キリスト者と同様に武士道につながる要素をもち、人々をひきつけたこと。
4 反藩閥、藩閥の代表的人物伊藤博文への反感は日本でも広範に共有されていたもので、伊藤暗殺への非難は日本国内でもさして強くなかったと考えられること。
5 内地の日本人と違って、満州朝鮮に派遣されていた人間は現地の植民地政策の過酷な状況を知っており、日本人エリート層には、韓国への同情、とりわけ韓国のエリートへの同情があったこと。
事件直後でも以上のように安重根に対する冷静で客観的な日本人の対応が見られるのである。韓国併合に至る戦前の朝鮮政策に対するいささかの反省がありさえすれば、安重根めぐって日韓が対立するような事態は十分に避けられる。そして、その反省の上で安重根を正当に評価することは日韓友好の契機となり、さらにそれを深化させる道へと導くことができるものと考えられる。