2016年7月1日
般若心経の中で「色即是空」という言葉が有名だが、「受想行識亦復如是(じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ)」という言葉があり、「受想行識」も「色」と同様に「空」であり「無」であるとされている。
我々に対するメッセージとしては「色即是空」よりも「受想行識亦復如是」のほうがインパクトがあるものではないかというのは、筆者のかねてよりの主張である。
「色」というのは人間のまわりで起きる諸々の現象のことだが、それは不確かで当てにならないというのが「色即是空」である。「万物流転」「諸行無常」などと同じこととして表面的に納得してしまいやすい。
一方、「受想行識」はその諸々の現象を感知し、情報処理する人間の精神作用のことであり、その人間の精神作用がまったく当てにはならない、信頼をおけないというのである。人間への信頼を根底から否定する考え方であり、日常的な我々の考えの根本的反省を迫るものである。
その「受想行識」だが、一括すれば人間の精神作用、情報処理作用ということができるが、「受」「想」「行」「識」のそれぞれが何を意味しているのかは、なかなかわかりにくい。般若心経の英訳に当たり、それぞれにどのような英単語が当てられているかをみると、いかに理解が混乱しているかがよくわかる。すなわち、「受」については「sensation」「feelings」「sensing」、「想」については「thought」「perception」「imaging」、「行」については「confection」「formation」「willing」、「識」については「consciousness」「conceiving」といった具合である。
それぞれが何を意味しているのか、私見を述べる。
視覚を例にする。目を開ける。光線を眼というアンテナが感知する。明るい空間が広がっている。これが「受」である。この段階では空間に区分がない。
「山」の部分、「平原」の部分、「牧柵」の部分、「動くもの」の部分というように視界が区分される。「動くもの」に関心が向いたりする。これが「想」である。この段階では区分されたそれぞれに名前はない。
「想」によって区分された視界が、特に関心を向けたある区分が、人間に蓄積されていた過去の情報によって吟味される。それは「山」だ、それは平らで草が生えていて牧柵に囲まれているから「牧場」だ、動いているものは四足で大きくて細身だから「馬」だ。瞬時に行われるこのような吟味が「行」だ。
この「行」によって得られた情報が、ある場合にはまったく新しいものとして、ある場合には過去情報を修正して、ある場合には過去情報に重なって、過去情報の中に整理され、今後の「行」に備えて蓄積されることになる。これが「識」である。
同じような過程が、聴覚、嗅覚、味覚、触覚についても考えられる。いくつかの感覚が総合されて同じような過程をたどることが通例だろう。
「行」「識」については明らかに後天的に得られた情報の介入がある。すなわち明らかに人間が創り上げた文化が作用することになっている。そしてその作用は「想」「受」にさかのぼって影響するだろう。
これを別の言い方で言えば、「受想行識」とは、人間が勝手に、自己都合で作り上げた実質のない、砂上の楼閣にすぎない情報体系(=文化)に左右される当てにならないものでしかない。人間一人一人の感覚はまったく絶対的なものではなく、一時的にそう感覚するよう仕向けられていたにすぎない。万物の霊長などと誇っているが、人間の精神作用など、「空」であり「無」というほかない。こういうことになる。
何故そんな虚しいものに拘泥し、恐怖し、苦悩し、生きるの死ぬのと騒ぎまわらなければならないのか、まったく理解できない、般若心経はこう言うのである。
ぐうの音も出ないではないか。