2014年6月28日
ついに新しい武力行使基準に関する閣議決定がなされることになった。他国が攻撃された場合でも、それが「我が国の存立を脅かし、国民の生命、自由、幸福追求権を根底から覆される明白な危険がある場合」(以下、「究極危険事態」という。)においては、他国に攻撃を加えた国に対する武力行使が現憲法の下で容認されるという。
それはいったいいかなる事態なのだろうか?
日本の領土が直接攻撃される事態は、究極危険事態そのものであり、それがいかなる事態かと問うまでもないことである。
しかし、「他国が攻撃された場合」が「日本が直接攻撃された場合」と同じように究極危険事態となるケースを想定するのはむずかしい。
具体的に考えてみよう。
北朝鮮がアメリカに向けて核ミサイルを発射したとする。それ自体が直ちに日本にとっての究極危険事態ということはできない。しかし、アメリカ到達前にミサイルを撃墜する能力を日本がもっていると仮定して、それにもかかわらず、ミサイルの通過を放置していたならば、アメリカは激怒し、日米安保条約に基づく日本防衛義務はもはや履行しないという態度に出るであろう。この結果、日本は北朝鮮をはじめとする各国からの攻撃に単独で対応しなければならない事態に追い込まれる。ここで日本は究極危険事態を迎えるのである。今回の武力行使基準はこう言う論理を経由して北朝鮮のミサイル撃墜という武力行使を容認するのである。
すなわち、「他国が攻撃された場合」を日本の究極危険事態とするためには、アメリカの日本防衛義務の放棄のおそれという中間項が必要なのである。この中間項なしに「他国が攻撃された場合」が日本の究極危険事態となるケースを想定することはできない。
例えば、機雷敷設によるホルムズ海峡封鎖という事態を考えてみよう。これ自体を日本の究極危険事態ということはできない。経済的ダメージは大きいが、究極危険事態とは次元を異にする。これを「我が国の存立が脅かされる事態」とすることはできない。このケースを究極危険事態として自衛隊が機雷除去作戦に派遣されるには、やはり中間項が必要となる。すなわち、日本に大きな経済的ダメージをもたらすホルムズ海峡封鎖を解除するため、米軍が大きな犠牲を払ってまさに日本のために活動しているのに、日本が何の活動もしないということでは、アメリカに大きな不満と不快感が生じる。結果としてアメリカは日本の防衛義務を放棄しかねない。この中間項が入ってはじめて、日本が機雷除去に参加しなければ究極危険事態を迎えるという論理が成立し、機雷除去作戦という武力行使が容認されるのである。
新しい武力行使基準の実質的論理が次のようなものであることが明らかである。
「アメリカが日本防衛義務を放棄する事態は日本の究極危険事態である。アメリカが攻撃を受けた場合、アメリカを攻撃した国に対して我が国が反撃しないと、アメリカの日本への反発から日本が究極危険事態を迎えることとなる場合が想定される、そのような場合には我が国の武力行使は認められる。」
すなわち、新しい武力行使基準における「他国が攻撃された場合」の「他国」とは、公明党の修正が入ろうと入るまいと、アメリカしか考えられない。アメリカ以外の国が攻撃されてそれが日本の究極危険事態であることはありえない。
新しい武力行使基準がこういう論理をもっている以上、日本はもはやアメリカからの参戦要請を拒否することはできなくなる。日本が参戦要請に応じないようであれば、アメリカはこう言うだろう。それではアメリカは日本の防衛義務から降ろさせていただく、なぜ憲法上容認されているはずの武力行使を日本は実行しないのか、と。日本はこれに抵抗する根拠も論理ももはやまったくもたない。アメリカの脅しにまったく抵抗できない状況に追い込まれている。湾岸戦争やイラク戦争のような戦闘行為にけっして参加することはないなどと語っている無知な総理大臣がいるが、今回の閣議決定でそんないい加減な口約束を保証するものは完全に吹き飛ばされてしまっている。
公明党は、「おそれ」を「明白な危険」に、「他国」を「我が国と密接な関係にある他国」に修正したことによって武力行使に歯止めがかかったなどと言っている。しかし、以上のべたように、そんな修正は何の歯止めにもなっていない。手練手管に長けた自民党に公明党は赤子が手をひねられるように簡単にだまされてしまった。7月1日は歴史的悲劇の幕が切って落とされた日として永久に記憶されることになるだろう。