2014年6月24日


 品性下劣の都議会議員・鈴木章浩のヤジは2つの意味で問題である。しかし、鈴木は謝罪記者会見で問題の1つに対してしか謝罪しておらず、その結果むしろ、もう1つの問題である鈴木の女性に対する頑迷固陋な考え方を強化することになっている。まったく許しがたい鈍感で浮薄な政治家である。


 鈴木のヤジの1つの問題は、「結婚したくても結婚できない、子供を産みたくても子供を産めない」という条件におかれた女性たちに対する無礼、無配慮、非情である。このことに関しては、謝罪記者会見で、ヤジの対象になった塩村文夏議員もそれに該当すると鈴木は勝手に見なして、塩村議員とそのような条件に置かれた女性たちに謝罪の言葉を述べた。

 しかし、鈴木のヤジにはもう1つの問題がある。鈴木のヤジは、「結婚しない、子供を産まない」ということをポジティブに選択した女性たちの選択を認めない、否定しているという問題である。すなわち、結婚し、子供を産むということを、鈴木は、女性にとって選択の余地のない、義務的なことと考えているということが、ヤジに現われているのである。このことについては鈴木はまったく謝罪していない。

 この鈴木のもっている旧道徳と第1の問題についての謝罪は矛盾しない。そして、そもそも鈴木は、第2の問題については気づいてもいない。だから彼の顔には深刻な反省が見られない。彼は旧道徳のままで、羞恥のいささかもなく、まったく自己否定を迫られていないのである。


 鈴木章浩は、現代の政治家として、いや一般市民として、基礎的教養、常識に欠けると言わなければならない。所属政党名の「自由」の理念が泣くというものだ。

 選挙区は東京都大田区だそうである。かつての我が縄張りの市民の人々は、都議会議員となった非道徳者に厳しく対応しなければならない。そうしなければ選挙区の恥である。

 「水に落ちた犬を打て」とは魯迅の言葉である。犬の性情は水に落ちたくらいでは変わらない、またモゾモゾと元のままで這い上がってくる、水に落ちているところでさらに打ち据えなければならない、という意味である。「水に落ちた鈴木章浩」は強く打ち据えられなければならない。


 なお、今回のヤジ問題は、魅力を感じる女性にいじめ的アクセスしかできない、また女性に強圧的であることが男らしさであると誤認しているという鈴木章浩及び同類議員の「マッチョの幼児性」という問題もはらまれているのであるが、問題を絞るために取り扱うのを控えた。