2014年6月20日


 誠に遅ればせながら、大著・名著「単一民族神話の起源~〈日本人〉の自画像の系譜」(小熊英二著・1995・新曜社)を読んだ。

 膨大な内容であり、ここで内容を紹介することは到底できないが、明治以来日本人の起源については、一方に単一民族論があり、一方に混合(複合)民族論があり、論争を繰り返して今日に至っているが、おおむね戦前期には混合(複合)民族論が優勢であり、劣勢にあった単一民族論は戦後になって息を吹き返したものであるということを、本書による詳細な研究成果の報告によって知ることができる。


 なぜ日本人の起源というような国の基本に関わることが、結論に至らずに延々と議論の対象になるのか?それぞれの論を要請する歴史的・社会的背景があったからであるというのは、まさに本書の示すところである。しかし、たとえそれぞれの議論を要請する背景があったとしても、事実判断の問題であるにもかかわらず決着がつかないのはなぜか、という疑問は残る。


 その答は簡単である。議論の前提となる「民族」を定義していないからである。要するに、生物学的に「民族」を考えるのか、言語、生活様式等々の文化で「民族」を考えるのか、当事者の帰属意識で「民族」を考えるのか、これを定めずして「民族」を議論するから結論が得られないのである。


 別の言い方をすれば、日本人の起源の問題は、科学的に、ということは定義を明確にして議論し結論を得るということよりも、その時代時代の社会状況への適合性のほうが優先され、社会状況に都合がいい主張が受容され、優遇されてきたということなのである。


 我々もしばしばある種の興奮をもって日本人の起源について議論をするわけだが、科学的事実を知ろうとして議論しているのか、民族や外国にかかわる政策の妥当性を議論するために日本人の起源について議論しているのかをはっきりさせて議論をする必要がある。そして、科学的事実を知ろうとしているのであれば、まずは定義を明確にすることが必要である。また、政策の妥当性の議論の場合には、その妥当性の論拠として日本人の起源を持ち出してくることは、その論拠がすでに政策目的によって偏ったものであることからして、誤りであることを認識し、無駄な議論は避けなければならない。


 そのためにも、本書は必要な基本的知識を提供してくれるものとして、多くの人に読まれ、多くの人の共有財産となるべき価値を有するものと考えられる。