2014年6月6日
維摩が衆香国の菩薩と対話します。衆香国とは我々のいる娑婆世界とは別の世界にある国です。釈迦は我々のいる娑婆世界の仏であり、衆香国の仏は香積仏という仏です。この国は香木で高殿が作られ、庭園も香りに満ち満ちており、食べ物の香ばしさは広く十方の量り知れない多くの世界に漂い流れていっています。
維摩「香積仏はどのようにして教えを説かれるのですか?」
菩薩「香積仏は言葉でお説きにはなりません。さまざまな香りによって戒めを守らせ、菩薩たちは美しい香りをかぐと瞑想に入り、菩薩が備えるべき功徳をすべて備えるに至るのです。ところで娑婆世界の釈迦牟尼仏はどのようにして教えを説かれるのですか?」
維摩「こちらの世界の人たちはかたくなで、教化しにくいものですから、仏は強い言葉で説いてこの人たちの心を抑えつけ、彼らの心をおととのえになります。すなわち、これが地獄だ、これが畜生だ、これが餓鬼だ、これがよこしまな行為だ、これがその行為の報いだ、これが盗みだ、これが姦淫だ、これが生き物を殺すことだ等々です。教化しにくい娑婆世界の人の心は猿のように落ち着きがないので、幾種類かの方法によってその心を制御したうえで、教化することができるのです。飼い主の思いどおりに動かない、訓練されていない象や馬には、いろいろと苦痛を与え、あるいは骨身にこたえさせて、そのうえで調教するようなもので、娑婆世界の人は心のかたくなで教化しにくい人たちばかりなので、すべて心に苦痛をおぼえるような苦言をはいて、規律正しい生活に入らせるのです。」
これでは要するに釈迦が便法として人間に分別心を起こさせているということになります。人間の苦悩の元である分別心は釈迦が人間にもたらせたものということになります。
分別というものが幻想でしかない、つくられたものでしかない、釈迦の教えにある分別でさえ同じであるということをわからせようという「維摩経」の作者の意図なのかもしれません。
しかし、ここまで言われてしまうと、あまりにもひどい釈迦の仕打ちではないかとの感を凡夫は否めません。そんなおせっかいはやめて、ほうっておいてほしいという気になります。
「維摩経」のシリーズ、終わりです。