2014年6月5日


 引き続き維摩と文殊菩薩との対話です。


維摩「悟りをひらく種(元となるもの)は何ですか?」

文殊「端的に言えば肉体が種ですが、愚かであること、執着があること、貪りの心、怒りの心、心の暗い愚かさも種です。………要するに、誤った考え方やすべての煩悩が悟りをひらく種なのです。」

維摩「どういうことですか?」

文殊「蓮華は高原の乾燥地では育たないけれど、汚い湿った泥沼だとよく育ちます。悟りに入った人は、またふたたび最高至上の悟りを求めようという心を起こすことはできませんが、煩悩の泥にまみれている人は悟りを求める心を起こすのです。大海の底に潜らなければ、値打ちのわからないほど高価な宝の珠は手に入れることができないように、煩悩の大海に入らなければ、一切を知る智慧の宝を得ることができないのです。」


 その時、聞いていた釈迦の十大弟子のひとり迦葉(マハーカーシャパ)が言いました。


迦葉「文殊さんのおっしゃるとおりです。煩悩にまみれた人は仏の悟りをひらく種をもっていますが、わたしたちはいまふたたび最高至上の悟りを求める心を起こす能力に欠けています。わたしたちのように自分だけの悟りに努めてさまざまな煩悩を捨てることができた聖者は、さらなる悟りを求める心が起きないので、仏の教えを広めようという心を起こすことがありません。文殊さん、愚かな人は仏の教えを広めることによって仏の恩に報いることができますが、自分だけの悟りに努める聖者にはそれができないのです。」


 自分だけの悟りに努めて衆生を顧みない小乗仏教の立場を批判する対話でもあり、また親鸞の「悪人正機説」と同一の立場に立った対話とも考えられます。