2014年6月4日


 維摩と病気見舞いに来た文殊菩薩との対話です。


文殊「菩薩(悟りを求める者)はどのようにして仏の悟りに達しますか?」

維摩「もし菩薩が、罪の報いを受ける迷いの世界(非道)に行くことができるなら、これこそは仏の悟りに達したことになるでしょう。」

文殊「菩薩が悟りに達するために非道に行くとはどういうことですか?」

維摩「もし菩薩が、五大逆罪を犯しても怒りに悩むことがないならば、地獄に堕ちても罪の汚れが少しもないならば、畜生の世界に堕ちても明晰適切な判断が下せなかったり慢心を起こすような過ちがないならば、餓鬼の世界に堕ちても功徳を備えているならば、欲界を超えた世界に行っても満足してこれを最高とすることがないならば、貪りをあらわに示していても煩悩の汚れを離れているならば、怒りを表に現わしていても怒りの心がないならば、愚かさを表に現わしていても智慧でその心を克服しているならば、物惜しみしているように見えながら内外すべてのものを施し、身命さえも惜しんでいないならば、戒めを破っているように見えながら正しく心安らかに戒めを守り、どんな小さな罪にも激しい恐れを抱いているならば、怒っているようでもいつも慈しみをもって心に耐え忍んでいるならば、怠惰のようでも心を込めて功徳を修めているならば、心は乱れているようでもいつも心は静かに落ち着いているならば、愚かなようでも世俗の学識や悟りの智慧にも達しているならば、へつらいやうそ偽りを外に現わしているようには見えてはいても巧みに方便を講じて経典の心に従っているならば、おごりたかぶっているように見えても世の人に橋のようにへりくだっているならば、さまざまな煩悩を現わしているように見えても心は清浄であるならば、悪魔の中に入っていっても仏の智慧に随ってほかの教えに随わないならば、自分ひとりだけの悟りに励む聖者の中に加わっても世の人のためにまだ聞かれたこともない教えを説くならば、自らさとった悟りをひとり楽しむ仏の中に加わっても広大な慈悲を完成して世の人を教え導くならば、………財産があることを隠さないけれども常に世の無常を内観して決して貪ることがないならば、妻や妾を持ち、遊び女のあることを隠さないけれども常に五官の情欲のぬかるみから遠ざかっているならば、………異教を奉じていることを示しながら仏の教えによってすべての人を救うのならば、普くさまざまな教えを学ぶことを示しながらその因縁を絶つならば、悟りの境地を現わしているけれど生死の世界を切り捨てていないならば、文殊さん、菩薩は悟りに達したものと言えます。」


 思いつきですが、この維摩の答は、「般若心経」において「色即是空」の後に「空即是色」と続いて、「色」は「空」、その「空」は「色」、その「色」は「空」、その「空」はやはり「色」とする螺旋階段的認識、それが悟りへの道だということを言っているように思えます。