2014年5月29日
舎利弗と天女の対話の続きです。
舎利弗「貪(むさぼ)りと怒りと心の暗い愚かさとを離れることが、悟りではなかろうか?」
天女 「さとってもいないのにさとったと慢心(増上慢)するひとのために、仏は、貪りと怒りと心の暗い愚かさを離れることが悟りだ、とお説きになっただけで、もしそのような慢心がないひとには、仏は、貪りと怒りと心の暗い愚かさの本性が、そのまま悟りなのだ、とお説きになりました」
貪りと怒りと心の暗い愚かさ(貪瞋痴【とんじんち】)から離れることを理想とするのが仏教の教科書的理解のはずですが、それは単なる方便にすぎないと天女は言うのです。むしろ貪りと怒りと心の暗い愚かさの本性がさとりだと言うのです。貪りと怒りと心の暗い愚かさの本性とは、これらを生み出す人間の根本ということでしょうか?
何という素晴らしいアンチテーゼではないでしょうか。
ここで示されている考え方は、貪りと怒りと心の暗い愚かさ、及びこれらを生み出す人間の根本をそのまま受容せよということでしょうか?貪りと怒りと心の暗い愚かさを離れるなどということはそもそもあり得ないことであり、それでいいのだということでしょうか?
「それでいいのだ」とは天才バカボンのお父さんのせりふでした。仏には十の尊称があって、そのうちの1つにバガバット(世界で最も尊い、尊敬される人という意)という尊称があるそうで、「婆伽梵(バカボン)」と音写されるそうです。天才バカボンという命名は赤塚不二夫がここから持ってきたのでしょうか?