2014年5月26日
「維摩経」は大乗仏教のお経です。無色、無受想行識(人間というアンテナが感知する外部情報、その情報処理をする人間の精神的機能、いずれも無である、一時的仮象であり、本来こうであるというようなことはない)という「空」の思想を突き詰めるとどういうことになるかということを維摩という在家信者(ただし大金持ちの超能力者)を中心とした仮想対話劇によってあらわしたお経です。お経に特有の煩雑な表現、繰り返しはあるのですが、そこを我慢するといろいろと面白い場面にめぐり会うことができます。筆者が面白いと思ったところをいくつか披露することにしましょう。(平凡社東洋文庫「維摩経~不思議のさとり(石田瑞麿訳)」を元に筆者が適宜変更しています。)
維摩が病気なったというので、釈迦は10人の弟子のうち智慧第一といわれた舎利弗(シャーリプトラ)に見舞いに行くように命じます。すると舎利弗はかつて自分が坐禅をしていたとき、維摩にやり込められたことがあるので行きたくないと断るのです。そのとき舎利弗は維摩に次のように言われたのでした。
「舎利弗さん、坐ることだけが坐禅ではありませんよ。そもそも坐禅は迷いの世界にいることが前提ですよ。普通の立ち居振る舞いをし、世俗の日常生活を送り、間違った考え方を捨てないまま、煩悩を断ち切らないままで、するのが坐禅ですよ。しかも無心の境地にひたり、悟りを得るために修行し、涅槃に入るのです、それが坐禅なのですよ。」
舎利弗は林の中で樹の下に坐って坐禅をしていたのですが、そのようにことさらに構えて坐禅をする舎利弗を維摩は批判したのです。すなわち、特別の修行をした一部の人だけが救われるという小乗仏教の思想を批判し、一切の人々は救われるとする大乗仏教の立場に立って、舎利弗の坐禅というのは認められないということを維摩は言ったのでした。禅の修行をされている方々はここのところをどう考えるのでしょうか?
舎利弗は釈迦に報告しています。「わたくしはこの言葉を聞いて、ただ黙っているばかりで、何も答えることができませんでした。」