2014年5月23日


 安保法制懇及び安倍首相は集団的自衛権の行使容認にあたり「必要最小限」なら認められると言っている。

 「必要最小限」という言葉は「最小限」というところから「抑制的」という印象を与えるが、「必要」という形容があるため、事実上は「最小限」という言葉が抑制的に機能することはないと言うことができるだろう。

 集団的自衛権の行使というのは言うまでもなく戦争をするということである。戦争には勝ち・負けがある。「必要」というのは勝つために「必要」、負けないために「必要」という意味である。

 敵が核兵器を使用する場合には核兵器で対抗する必要がある。仮想敵国の設定如何によって集団的自衛権行使のための戦力として、「必要最小限」の範囲の中に日本の核武装は論理的には含まれ得る。

 敵が長期ゲリラ戦の戦法をとった場合、集団的自衛権の行使の期間は長期化する。現在のアメリカが長期に戦争状態から脱却できない状態にあるのと同様の事態を日本が経験することになる。これも「必要最低限」のことである。

 


 「必要最低限」という条件にはもう一つ問題がある。その条件は憲法第9条解釈のどこから生じてくるのか、ということである。いわゆる「文理解釈」の問題である。筆者は文理解釈上、集団的自衛権容認の余地はないと考えている。安保法制懇及び安倍首相は「文理解釈」によって集団的自衛権は容認されると言っている。

 その解釈は、まず第9条第1項で禁止されているのは「侵略戦争」であり、個別、集団を併せて自衛権は認められる、というものである。この見解には筆者は異議はない。次に第2項で戦力放棄、交戦権否認が定められているが、個別・集団を併せて自衛権のための戦力は放棄されていない、交戦権も否認されていない、というのが安保法制懇及び安倍首相の解釈である。ここが間違っているというのが筆者の考えであるが、ここではそれをおいておく。

 安保法制懇及び安倍首相の「文理解釈」から「必要最低限」という条件はいかなる論理で導き出されるのであろうか?そのような条件が憲法解釈から生じてくる余地があるとは思えない。「必要最小限」なら認められるという言い方のインチキは、「必要最小限」という条件の要請が憲法から来るということを明言していないところにある。憲法からの要請がないのであれば、それは政策判断であるということになり、「必要」優先で歯止めがないということの性格がさらに強まることになる。条件を導き出してくる根拠がないのに「必要最小限」と言っているのは国民を欺くための政治的な言葉でしかないであろう。


 なお、現在の憲法解釈で「必要最小限」という条件が生じてくるのは次のような憲法の文理解釈によるものである。参考に掲げておく。

 日本が外国から武力攻撃を受けるといった急迫不正の事態への対処のための実力は第9条第2項の「戦力」にはあたらない、またその対処は「交戦権」というものとは別の概念である。このため憲法上、急迫不正の事態への対処のための実力保持は合憲であるが、急迫不正の事態への対処という目的が限定された実力である。この目的の限定という結果、保持しうる実力は「必要最小限」という条件が「文理解釈」の上から必然的に生じてくるのである。


 首相は当然として安保法制懇も権威ある人たちの集まりである。インチキは厳に慎んでもらいたい。

 なお、解釈によらず、憲法改正によって集団的自衛権、集団安全保障をいかに取り扱うべきかという問題については十分に議論の余地のあることであると筆者が考えていることは付言しておきたい。筆者は解釈改憲は「文理解釈」上、インポッシブルであるということを言っているのである。